鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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像のように天衣が全身をめぐっていたと考えるべきであろうことである。現状では全<天衣の痕跡をとどめないが,今みられる漆箔が施される以前に傷んでしまって別材製の天衣が失われてしまったとみるのが妥当であろう。そうすると,峯定寺像の方が光台院像よりも華やかで,むしろ煩雑といってよいほどの賑やかな様相を呈していたと推測される。構造面から検討すると,光台院像が頭体通して前後割矧とするのに対して,峯定寺像は頭体別材とし,体部の前後の矧ぎ面を背面寄りとしており,体勢の前後方向の大きな動に対処するために合理的な木取りを工夫している点に注意される。以上の検討から,本三諄は行快の様式を顕著に示した作例であることが理解された。したがって,作者については,行快もしくは行快に極めて近い周辺仏師と考えられる。また,制作年代については,行快の阿弥陀寺像と北十萬像との間に位置づけうると結論できる。左肩下がりまで衣が下がった著衣形式から判断して,北十萬像の制作年代の上限は一二三0年頃と推定できる(注7)ことから,峯定寺像はーニニ0年代の制作とみなせる。四,安阿弥様の来迎相三尊の展開における峯定寺像の位置来迎形式の三尊については,光台院像の形式を快慶が完成し,それが受け継がれ展開したという見解が三宅久雄氏によって提出されており(注8)'こうした三尊形式の例として,和歌山・五坊寂静院,奈良・金光寺,神奈川・教恩寺,神奈川・光触寺などがあり,小異はあるもののいずれも安阿弥様に則った作例である。中尊に来迎印を結んだ立像の阿弥陀像を,両脇侍に前屈みで中腰になって両手で蓮台を捧げ持つ観音菩薩立像と,合掌する勢至菩薩立像を配した三腺形式の最古の例は,承久三年(-ニニー)頃の快慶作光台院像とみられるが,その形式は新興の念仏教団の拡大とともに広まっていったことが指摘されている(注9)。こうした三腺形式の中では,和歌山・五坊寂静院像が中腺に快慶の作風に近似した,若々しい様風の阿弥陀像を据え,両脇侍ともに光台院像に様式・制作時期ともに近いことを窺わせる。また,神奈川・教恩寺像も中尊に快慶の前期の像に似た作風の像を迎え,両脇侍もすっきり整った様式を示しており,快慶の三尊形式を踏襲していることを指摘できる。一方,天福二年(-二三四)銘を持つ奈良・金光寺像は中尊の顔立ちやプロポーション,両脇侍の衣の縁を強調した著衣表現などに,快慶様を忠実に踏襲していこうとする前二-323-

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