鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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r玉ら缶、‘ム第2四半期を中心する時期が湛慶時代といえよう。そしてこの湛慶時代は,政治史の貞応二1223 後白河天皇皇女准三后宣陽門院発願の醍醐寺球魔堂司命・司録像造貞応三1224 平岡善妙寺鎮守に善妙神・獅子狛犬等安置。(『高山寺縁起』)嘉禄二1226 二親の菩提を弔う丈六阿弥陀像造り始める。(『来迎院文書』中の「湛安貞三1229 高山寺大門金剛力士像造立。(『高山寺縁起』)寛喜元1229 二親の菩提を弔う丈六阿弥陀像完成。浄連華院本尊となる。文暦二嘉禎三1237 この年までに高山寺十三重塔の制多迦,梵天,帝釈天,毘沙門天造寛元1244 1248 建長六1254建長八1256 (無年記)以上のように建久九年頃から建長八年まで知られる湛慶の活躍期のうち,まず湛慶時代と呼べる時期を確認すると,諸先学の指摘する通り,運慶が没し,快慶もこの年を最後に記録から姿を消す貞応二年(1223)以降とみるべきで,すなわち十三世紀の上でもその前と比べて大きな変化の起こった時期であった。運慶の没する二年前,承この年以前に地蔵十輪院増長天像造立。慮舎那仏運慶,持国天円慶改名運覚,広目天康運改名定慶,多聞天康海改名康勝。(『高山寺縁起』)立。快慶は泰山府君と五道大臣を造立。(『醍醐寺新要録』)慶注進状」)年(1235)大原来迎院に移される。(『来迎院文書』中の「湛慶注進状」)高山寺三重塔五仏(毘慮舎那,文殊,普賢,観音,弥勒)をこの年造立か。但し,文殊は定慶作で,寛喜元年六月二七日開眼。(『高山寺縁起』)立。(『高山寺縁起』)高野山大門金剛力士像造立。(『高野春秋』,『紀伊続風土記』)高山寺羅漢堂比丘形文殊造立。(『高山寺縁起』)御嵯峨院最勝講四天王像造立。(『葉黄記』)運華王院千手観音坐像造立(建長三年から)(台座銘)。東大寺講堂千手観音造立。湛慶は功半ばで卒去し,康円が継ぐ。(『東大寺続要録』)高知・雪践寺毘沙門天,吉祥天,善脈師童子像造立。-348-

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