鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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久の乱(承久三年=1221)に幕府が勝利したことにより,幕府の権力は一層強まり,その勢力はほぼ全国に及ぶようになった。その際,朝廷側より没収された所領が幕府の御家人たちに分配され,幕府の関係者たちが新たに守護・地頭に任命されることとなった。鎌倉時代において,幕府や御家人たちが造寺・造仏のパトロンとして大きな役割を果たしたことは周知の通りであり,湛慶時代にその影署を受けた作例が全国規模で増加するのは,こうした新体制と関係があるのはほぼ間違いあるまい。従ってこれは彫刻史の上でも時代背景として押さえておく必要があろう。その上で湛慶の事績を眺めると,まず宮廷関係の仕事が多いことが気づかれる。そして,その際に院派・円派との共同作業も多くみられることも注意される。こうした事績をみる限り,湛慶は院派や円派と同様に,宮廷仏師としての性格を強く帯びていたように見受けられる。父運慶も後半生はしばしば宮廷関係の仕事に携るが,幕府や南都の関係の造仏の方が目立ち,ここに湛慶の事績の特徴の一つが指摘できよう。湛慶の作風にみられる繊細さや上品さは,彼のこうした性格を反映したものともみることが出来ようか。そして,いま一つの特徴として挙げられるのは,いま知られる限りでは運慶の死後,湛慶には幕府や御家人の関係する事績がみられないことである。しかし,幕府は頼朝の時代以来,造仏面においては慶派仏師とのつながりが強く,それは十三世紀の第2四半期,すなわち湛慶時代に及んでも踏襲されたとみられている。宝治元年(1247)慶禅作埼玉・天洲寺聖徳太子立像,嘉禎二年(1236)頃作神奈川・證菩提寺阿弥陀如来坐像(注4)'静岡・北条寺阿弥陀如来坐像などの作例はこれをよく示している。また,文献からも,文暦二年(1235)に北条泰時が行った竹御所一周忌追善の像を造った「肥後法橋」(注5)は定慶とみられ,同年に幕府が将軍頼経の病気平癒のため行った造仏を担当した康運弟子の康定(注6)も慶派仏師であろう。このように遺例・文献の両面からみても,幕府周辺では慶派とのつながりが強かったことが確かめられる。それを考えると,この湛慶の事績はいささか不思議であるといわざるをえない。これか湛慶個人の様式上の問題に起因するのか,あるいは湛慶の個人的事情のよるのか,いずれにしてもこれをどう解釈するかという問題は,今後湛慶様式を考える上で重要な課題となろう。湛慶は建保三年に後鳥羽院かとみられる院の逆修本尊を造立しているが,後鳥羽院が承久の乱で幕府と戦い,配流されたことは,以後の湛慶と幕府の関係に何らかの影響を及ぼしたことも考えられ,注意されるが,現時点でこの問題に明-349-

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