鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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つ。2.個別作例の検討確な答えを見出すことは難しく,今後さらにきめ細かな検討を続けてゆく必要があろこうした湛慶の事績上の傾向をふまえたうえで,湛慶時代の幕府による慶派様式の受容やその広がりをどのように理解するかについては,次の二つのことが可能性として考えられよう。(1) 湛慶の弟たちや弟子筋の仏師を派遣して注文に応えるこのケースに関しては既に松島健氏が静岡・願成就院本尊阿弥陀如来坐像及び地蔵菩薩坐像,静岡・北条寺阿弥陀如来坐像,京都・妙光寺薬師如来坐像,貞応元年(1222)銘福岡・観世音寺不空覇索観音立像ほかの作例を挙げて,その可能性に言及されている(注7)。慶派正統の作風を示しながら,湛慶とは別の個性を持つとみられる作例については,彼の弟や弟子の作である可能性を積極的に模索してゆく必要があろう。本稿ではこのケースの一例として,後述する神奈川鎌倉の明王院不動明王坐像を取り上げたい。(2) 工房制作として本拠地で制作した像を現地へ送るこのケースは既に運慶が建保四年(1216)将軍実朝持仏堂本腺釈迦如来像を京都で造って送り届けたことが知られる(注8)。この像はいま現存しないが,これもあるいはエ房制作ということもあり得たであろう。高知・雪践寺の像はこの可能性もあろう。近年,松島健氏が湛慶作の可能性を指摘された(注9)福井・中山寺馬頭観音坐像なども湛慶のエ房制作として考えることが出来るかもしれない。現時点では可能性の指摘に留まるが,この問題は湛慶様式普及の実態の解明や,鎌倉時代彫刻史の理解に重要であり,今後も検討を続けたい。本研究では神奈川・明王院不動明王坐像,静岡・北条寺阿弥陀如来坐像,高知・雪践寺諸像,神奈川・常楽寺釈迦如来坐像などの湛慶様式研究に重要と目される作例の調査を行った。そのうちここでは次の二例を取り上げ,改めて新たな視点より検討して,今後の展望を示したい。(1) 神奈川(鎌倉)•明王院不動明王坐像鎌倉市十二所の明王院は鎌倉幕府四代将軍頼経が寛喜三年(1231)十月六日に発願し(注10),文暦二年(1235)六月二十九日に供養された明王院誌(注11)にあたると-350-

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