鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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みられている。現在本堂正面壇上に一列に並ぶ五大明王像の中尊として安置される不動明王像は,昭和五十七年に鎌貪時代の作として市の有形文化財に指定されている。本像については既に三山進氏が明王院創建当初の像にあたる可能性があることを指摘されているが(注12),その後あまり取り上げられることもなく現在に至っているようである。ここで本像の概要をごく簡略に示しておきたい。本像は像高84.0cmのほぼ等身大の像である。頭髪を巻髪とし,頭頂に結う七荘髯の上に四弁花風の結髪をあらわす。左眼を砂めて右眼を見開き,左上牙を下出させて右下歯牙を見せて右上唇を噛む。こうした特徴は,概ね九世紀末に台密の安然が説いた十九観による不動の形像に基づいた造像であることを示す。一方で本像は,単に図像を造形化するには留まらず,正面において拮を台座上から垂らしたり,腰布の末端を波打たすなどの装飾性を取り入れていることが注意される。本像の構造は詳細には明らかにし得ないが,頭部・体部共に正中矧ぎを基本とするとみられ,後頭部や背面には別材をあて,さらに脚部材を矧ぎ付けているようである。本像は正面腹前の条吊末端材,辮髪の先端材,玉眼,銅製装飾品,持物,像表面のはか台座,光背を後補とするが,本体の保存状態は比較的良好である。本像の作風を眺めると,面貌は活き活きとした迫力のある念怒の相をあらわしながら,優雅な趣と品位を失わず,身体各部のバランスや弾力的な肉付け,ポーズや姿勢などが見事にまとめられ,破綻をきたすところは全くみられない。こうした作風からみて本像は明玉院創建頃の1230年代の作とみてもよかろう。不動の激しさや力強さと優雅さ・品格を併せ持つ本像の作者には湛慶周辺の仏師が想定されよう。これが首肯されるならば,本像は湛慶周辺と鎌倉幕府のつながりを示す作例として重要な意味を持つことになろう。殊に本像の示す品格の高さは宮廷仏師としての湛慶の性格を間接的に反映したものかとも想像される。ところで,この頃幕府との関係が知られる仏師には先に述べた肥後法橋(定慶)と康運弟子の康定がいる。両者の事績は明王院の供養と同じ年であり,殊に肥後法橋が造仏した竹御所一周忌追善の像の供養は,明王院供養のそのわずか一ヶ月前であるのか注意される。松島健氏も説かれる通り(注13),『高山寺縁起』の「康運改名定慶」との記述を信じれば,康定は定慶の弟子であることになり,この時期定慶一派が幕府に重んじられていたことが窺われる。明王院像の持つ慶派正統の作風や既述のように-351-

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