(2) 高知・雪践寺毘沙門天•吉祥天・善脈師童子像,薬師三尊像衣文表現などに装飾性が認められる点は,定慶の作風とも通じるものがあり,興味を惹かれるところである。しかし仏師の比定にはなお慎重な検討が必要であり,ここでは本像を湛慶時代の幕府周辺における慶派様式受容の一例として指摘するに留め,ょり詳細な検討は後日別稿にて述べたいと考える。高知市長浜の雪践寺はかつて高福寺と称したことが知られる。高福寺の濫腸は従来『土佐国編年紀事略』の伝える嘉禄元年(1225)のこととされているが,この嘉禄元年の開創については,『高知県の地名』(平凡杜)に説かれる通り,『土佐国古文叢』,『土佐金石文一斑』(注14)に同年十二月五日付の高福寺鐘銘が収められ,その頃の開創を信じてよいものと思われる(注15)。当寺の湛慶の銘記を持つ毘沙門天立像ほか二謳と湛慶様式を示す薬師三尊像は,湛慶様式を考える上での重要作例であるが,造立年代や伝来など未だ未解決な点もあるので,ここでは今後の研究のための視点や展望を示すこととしたい。まず薬師如来坐像についてであるが,本像は湛慶様式の如来像の典型とされながら,制作年代などを含めてその位置付けは必ずしもはっきりしていない。筆者は本像を移座しての調査には恵まれていないが,弾力的で締まった面部の肉付け,意志的で若やいだ表情,安定感ある姿勢,十分な奥行きなどの表現は極めて優れ,脚部には運慶作例によくみかける松葉状衣文や三角に折り畳まれた衣文がみられ,後頭部の螺髪を逆V字形に割り付けるのも注意される。腹部の肉付けなどがやや寂しいことを割り引いても本像は十三世紀前半,すなわち湛慶在世中の第一級の仏師の手になるものと思われ,湛慶自身かはともかくその工房の作と考えたい。こうした前提に立つと従来にもまして雪践寺諸像の伝来や造立背景の検討が重要となる。薬師如来坐像の伝来は,直接に示す史料はないものの,いま本像に随う文永十一年から建治二年(1274■76)銘の十二神将像は銘文から当初より高福寺の像であったことが判り,従って薬師像も高福寺の像として造られたと考えられよう。一方,湛慶銘の毘沙門天立像ほか二艦の伝米については,これを伝える確かな手がかりはいま知られない。湛慶は建暦三年(1213)に法印となっており,本像を嘉禄元年頃の作とみても矛盾はなく,もともと高福寺に伝わった可能性も考えられる。しかし,嘉禄元年の鐘銘にもそれを窺うことは出来ず,この像がもとから高福寺に存したかどうかは確定し得ない。湛慶の事績は先に述べた通り宮廷周辺や高山寺,南都の大寺に関係す-352-
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