る場合が大半を占めており,いま判明する限りにおいてはしかるべき筋の仕事のみを厳選して行っていた印象が強い。そうした湛慶の事績の中で,唯一の例外といえるのがこの雪践寺の事績である。他の事績からみると,雪践寺像にも都から遠く離れた地の造仏を引き受けるに値する何らかの背景があったと考えるのが自然であろう。これについて確実な手がかりを示すのは難しいが,少し留意されるのは長浜川を挟んで雪践寺の対岸に位置する若宮八幡宮の存在である。当杜は源頼朝が京都六条左女牛の源為義の遺跡に勧請した若宮八幡宮をのち当地に勧請したものといい,文治元年ぃ,社領鎮守社として勧請されたと考えられている(注16)。この吾川郡の地頭職は『三宝院文書』所収の「醍醐寺方管領諸門跡等目録」によって土佐国大野・仲村郷であったことが知られるが,長浜の若宮八幡宮の応永九年(1402)の鰐口には「土州仲村郷若宮常住也」とあり(注17),高福寺や若宮八幡のある長浜一帯が仲村郷に含まれていたことが分かる。六条若宮八幡宮は吾川郡以外にも頼朝から社領を寄進され,また文治元年には頼朝の側近大江広元の弟季厳が別当に補任される(注18)など,幕府とは密接であったようである。ところで,六条若宮八幡宮は「醍醐寺方管領諸門跡等目録」によれば醍醐三宝院の支配下にあり,三宝院がこの仲村郷の本所にあたると考えられているが,醍醐寺では貞応二年(1223)に湛慶が球魔堂司命・司録像を造立したことが想起されよう。このように仲村郷の背景に六条若宮八幡宮を介して頼朝の側近大江広元兄弟や醍醐三宝院がつながるのは興味深い。一方,同じ土佐国の香美郡宗我部・深淵郷地頭職には建久四年(1193)中原秋家という人物が補任されている(注19)が,秋家は元暦元年(1184)に幕府公文所の吉書始に寄人として加わったり(注20),文治元年(1185)には大江広元の命により訴訟解決にあたる(注21)など,大江広元と近いことが知られる。ところで,秋家の本姓は大中臣であったことがわかっているが(注22),嘉禄元年の高福寺の鐘銘にも大中臣福光なる人物が現れる。両者の関係を確かめることは難しいが,大江広元の下で仕え,香美郡で地頭となった中原(大中臣)秋家と,広元の弟季厳が別当を務めた六条若宮八幡の社領である仲村郷の高福寺鐘銘にみえる大中臣福光が一族である可能性は十分考えられよう。仲村郷同様,高福寺鐘銘においても大江広元との関係がほの見えるのである。より詳細な検討は今後の課題だが,この地が幕府や京都との直接の由緒を伝えるところであるのは興味深い。(1185)に土佐国吾川郡の地頭職が頼朝によって六条若宮八幡宮に寄附されたのに伴-353-
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