鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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(1725-1779)の売り立てが行なわれた。1772年4月6Hには1770年に不興を買って1786年に売却された。1777年2月,3月には,ブーシェの庇護者として知られるラン11月24日にはヴォードルイユ伯(1740-1817)のコレクションのうちイタリア,フラは10件前後,これが1770年代後半になると15ないし20件とさらに増加している。ジュ画特に風景画や風俗画への愛好が顕著になった状況に対応している。第三は公開の売り立てで入手するというものである。通常,所有者の死後間もなく行なわれる売り立ては,コレクションを増やしたい蒐集家に絶好の機会を提供することになった。パリでは,18世紀前半からオランダの美術愛好家の蒐集品が数多く売りに出され,これが17世紀オランダ美術の流行の下地を作った。また18世紀後半に数多くの蒐集家が優れたコレクションを形成したのは,1770年前後に高名な蒐集家の売り立てが相次いで行なわれたという事実に起因していると言っても過言ではない。1767年3月20日から5月22日にジャン・ド・ジュリエンヌ(1686-1766)の売り立てが,1769年2月にはジャン・ゲニャ(1697-1768)の売り立てが,1770年にはラリヴ・ド・ジュリー困窮したショワズール公のコレクションの一部が売りに出され,その残りも公の没後ドン・ド・ボワセ(1708-1776)の大コレクションの売り立てが行なわれた。1784年ンドル,オランダ絵画が売りに出された。こうした売り立ては,多く場合,ルブランやレミなど有力な画商が指揮をとった。パリで行なわれたさまぎまなジャンルの売り立て目録をリストアップしたジュランの記録に基づくならば,1740年代,1750年代の売り立ての数は1ないし3件だが,1760年代後半から5件程度に増え,1770年代前半ランは,1776年のブロンデル・ド・ガニーおよび1777年のランドン・ド・ボワセとコンティ公,これら3つの売り立てはキュリオジテの歴史において画期的なものであったと記している(注11)。愛好家たちはこうした機会に,専門家の助言を得て,あるいは代理人を使って名品を入手していった。この時期,次々と所有者が変わっていった作品があるのは,こうした事情による。ティエリーは,シャボ公爵のコレクションを紹介するなかで,サンテールによる絵画がブロンデル・ド・ガニーのコレクションにあったこと,またル・シュウールの絵は長い間ラ・キュルヌ・ド・サント=パラエの所有であったが,ランドン・ド・ボワセのもとを経てこのキャビネに入ったことを記している(注12)。ある作品が高名な蒐集家の所有であったという来歴は記すに値すると判断したのだろう。コレクションの内容は,この当時,イタリア,北方(オランダ・フランドル),フラ-358-

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