鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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ット柱頭である。縦方向に東から2つめのベイ(柱間)の中央に祭壇が立ち,その下に聖ドムニヌスの聖骸が納められている。西壁面の両脇,横3つのベイのうち左右のベイに相当する部分に2つの階段が設けられ,それらは真っ直ぐ聖堂の身廊に通じている。柱,柱頭,ヴォールトの要石,そして東から3つまでの縦方向のベイの周壁は黄色味を帯びた石灰岩が,それ以外の壁体,ヴォールト,オジーブには赤茶色の煉瓦が用いられており,ヴォールトのヴェール(三角片),両脇の礼拝堂には漆喰が施されている。年代設定ア大聖堂から同じ町にある他の教会への遷移したことを伝えていることから,クリプタの造営は1179年頃に開始されたと推定できる(注4)。そして,1207年に聖骸がクリプタに戻されていることにより,この年には完成されていたと考えられる。1207年の聖骸の遷移については,これまで断片的な後世の文献資料を通じてのみ知られていたため,その信憑性が問題となっていた。しかし1982年に,新たな祭壇を設置するため1488年制作の聖ドムニヌスのアルカ(聖遺物櫃)を撤去した際に,アルカの中から,13世紀初頭のものと考えられる書体で「MCCVIIREPOSITUM (1207年,再び置かれた)」と刻まれた石灰岩のブロックが発見され,それが事実であることが確認された(注5)。これまで,フィデンツァ大聖堂は12世紀後半からほぼ全面的に再建されたと考えられていたが,それに対し,12世紀前半の聖堂の遺構をクリプタに認め,この12世紀前半のクリプタの形状が現在のものとは異なっていると提唱したのはヴァーグナー・リーグルである(注6)。大聖堂の身廊東端にあるアプスは,クリプタと同じように長く,左右を鐘楼と旧聖堂参事会室に挟まれているが,現在の聖堂が再建される以前には,それはより短く,左右に小アプスが付随していた,そしてクリプタも同様の形状をとっていた,と論じているのである。その根拠としては,先ず,聖堂の南側側廊東端の壁体にかつての小アプスの存在を示唆するアーチ状の痕跡が僅かに残っていること,次に,クリプタ両脇の礼拝堂がかつてのクリプタのアプスに相当し得ること〔図面1〕,最後に,現在の聖堂のアプスの東半分の壁体が,様式を含め,アプスの西半分と著しく違っていることが挙げられている。その後,クインタヴァッレは,ヴァーグナー・リーグルの,12世紀後半に聖堂が再建される際にクリプタの2つの側廊と聖堂の2つの小アプスは除去されたという説は支持しながらも,中央のアプス,及びクリプタが同時代のドキュメントが,1179年に聖ドムニヌスの聖骸がフィデンツ-372-

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