鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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2, 16世紀以降のクリプタの改変1565年には,クリプタから大聖堂本堂に通じる階段の位置が移動されている。トレ3, 1179年から1207年にかけての改変延長されたのはもっと後のこと,おそらく13世紀末頃のことではないかと想定している(注7)。ヴァーグナー・リーグルとクインタヴァッレの双方の説とも大変示唆的であるが,その一方で,正確なデータの不足により,推測の域を出ていない。この度の研究の成果に,16世紀以降のクリプタの改変を伝えるドキュメントの発見がある。それらのうち極く重要なものついて言及する。ント公会議での教会建築に関する議論を受けて,フィデンツァ大聖堂の内陣も,1561年から1568年にかけて大幅に改変されているが,その折に,それまで聖堂の両側廊からクリプタの両脇に通じていた階段が,現在の位置に移されているのである(注8)。トレント公会議以降教会建築は統一的空間を指向することとなり,多くの中世教会建築の内陣仕切,ポンティーレ,聖歌隊席は撤去され,内陣は身廊方向へ引き伸ばされるなどしている(注9)。フィデンツァ大聖堂もその例に漏れず,内陣が延長されるとともに内陣から真っ直ぐ身廊に降りる階段が拡げられたが,同時に,この内陣に通じる階段の両脇に身廊からクリプタヘと続く階段が設けられたのである。この際に側廊からクリプタの脇に続く階段は撤去された。クリプタの北壁面西寄りには,この階段に通じていたアーチ状の開口部が閉じられた跡が鮮明に残っている〔図面4〕。その後1853年に,それまで閉じられていたクリプタ南側の空間を開けて,新古典様式の礼拝堂を設けている(注10)。一方,クリプタ北側の礼拝堂は1924年に設置されたものである(注11)。以下の4点から,12世紀後半までのフィデンツァ大聖堂のクリプタは3廊式で,現在礼拝堂となっている両脇の空間もクリプタの一部をなしていたと判断できる。1-縦方向に西から3つめのベイの横断面図〔図面2〕に見られるように,北の礼拝堂の高さ(4.45m),クリプタの3つのヴォールトの高さ(左より,4.325m, 4. 325m, 4. 32 m),そして南の礼拝堂のクーポラを除く高さ(4.333m)がそれぞれほぼ等しい。南の礼拝堂のクーポラは1853年に架けられたものである。2ー同じ横断図面におけるように,クリプタと礼拝堂を繋ぐ空間の高さが,横断,縦断アーチの要石の高さとおおよ図面の検討を中心に-373-

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