注略号:ACVFd= Archivio della Curia Vescovile di Fidenza, ACapFd = Archivio Capitolare di Fidenza, ASPr = Archivio di Sta to di Parma, BPPr = Biblioteca のように,これは1565年以前のフィデンツァ大聖堂のクリプタと聖堂を繋ぐ階段の位置と等しい。そうすると,12世紀前半の時点ですでにフィデンツァ大聖堂のクリプタの両脇に階段が設けられていたと考えられよう。これは,12世紀前半の聖堂全体の形状を議論する際の貴重な手掛かりとなる。さらに,ピアチェンツァ大聖堂との類似という点それ自体も注目に値する。これまでは,フィデンツァ大聖堂の建築に関しては,パルマ大聖堂,パルマ洗礼堂やモーデナ大聖堂との繋がりが指摘され,ピアチェンツァ大聖堂との関係につてはファサードの一部の彫刻に就いてのみ言及されてきているが,フィデンツァ大聖堂の建築様式さらに柱頭等の彫刻装飾は,ピアチェンツァ大聖堂,あるいはピアチェンツァ県内の同時代の教会,とりわけシドー会系の教会と少なからずの共通点を有していると考えられるからである。これは,フランス・ゴシックとフィデンツァ大聖堂との関係を論じるうえで重要な鍵となる。ところで,このフィデンツァ大聖堂のクリプタの改変は,西欧世界のクリプタの形状の変遷の歴史に沿うものであるといえる。6世紀に半円環状に聖遺物を囲む通路型のクリプタが生まれた後,それは,さらに他の通路が加えられたり平行に幾つもの部屋が並んだりと多様な変化をしながら次第に空間を拡げていき,12世紀を通じて,より単純な広い空間に変貌していく。これは,聖遺物をより身近に見ようとする信者の欲求とクリプタに押し寄せる人々の数の増加に依るものである(注14)。聖ドムニヌスの聖骸を奉じるフィデンツァ大聖堂は,アルプスの北側,あるいはイタリアの北西部からローマやエルサレムに向かうかつての巡礼の道に沿って立っており,中世期には植めて重要な巡礼地のひとつであった(注15)。この聖堂のクリプタにおいても,溢れる信者の流れにとって狭い両脇の側廊は支障をきたしていたはずであり,この両側廊を閉じて身廊を長くすることによって,より多くの信者が滞りなくクリプタに出入りし,さらに聖遺物櫃のまわりを巡ることが出来ることになったであろうと想像するに難くないのである。P alatina di Parma. (ll フィデンツァ大聖堂に関するこれまでの主な研究を以下に掲げる。ArthurKINGS--375-
元のページ ../index.html#386