鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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伝統的なやまと絵の描法である。また,その構図も先行する絵巻から引用している。例えば,本縁起には,「石山寺縁起」や如慶との合作「多武峯縁起絵巻」から引用したと思われる構図が散見できるのである。しかし,具慶はこれら伝統的なやまと絵の知識や技法を踏襲するにとどまったわけではない。かれは,鋭い観察眼によって,他の近世やまと絵の絵師には見られない独自の人物表現をおこなっている。それは,本縁起にもすでに認められるのである。本縁起の人物は,朱線で下線を描き,その上から彩色し,さらに輪郭線を描き起こしたものである。この輪郭線は,必ずしも下線をたどるものではなく,目安にしながらも肥痩のある淡墨線で速写的に引かれている。指や足などは勢いあまって先端部で途切れているものもあるが,モデリングにくるいは見られない。その表情も意図的にデフォルメしながら,喜怒哀楽の感情を生き生きと描きだしている。「箱崎八幡宮縁起」は具慶の絵画制作活動初期の傑作といってよいだろう。また,現在のところ,本絵巻の粉本となる資料は見つかっていない。一部,具慶のオリジナルと思われる部分もあるが,その図様は従来の八幡縁起絵を踏襲していると考えられる。詞書は,紛失した部分が多いが,久我廣通以下十六人の貴族が各段落を執筆している。この中には,中院通茂や白川雅喬といった当時の宮廷歌壇の有力者が散見できる。その内容は,送り仮名以外はほとんど漢字で表記され,誤字,脱字も少ない。また,脚色を加えることもなく,中世に奉納物として制作された八幡縁起の詞書をそのまま踏襲しているといってよい。さて,本縁起には「筆者/外題/妙法院宮/…中略…/箱崎八幡宮縁起連年杜中雖希/源家之染翰地遥而無由幸今秦重成/在京師而達衆望允是萬世之重賓/一社規摸款於本迩縁起神道者弥/慎而莫怠笑」との奥書が巻末に付されている。奥書通りに解釈するならば,本縁起は長年社中でその制作が望まれていたが,都より遠隔の地にあるためその手立てがなかった。しかし,幸い秦重成が京都に滞在しており,その希望が叶ったと読める。この時期,筈崎宮は,絶えて久しい放生会を座主坊盛範を中心として復活させた。このことに象徴されるように,当時は筈崎宮の復興が企てられていたと考えられる。よって本縁起制作もその一環として位置付けられるのではないか。奥書にある秦重成は,絵巻を制作するにあたって中央との連絡を担っていたのであろう。かれは,当時,筈崎宮の座主職で,和歌にも通じていたと思われる。筈崎宮に-385-

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