なるもので,本縁起もこれらの影響を受けたと考えられる。また,この「絵入縁起」には伝統的なやまと絵の表現が各所に見られる。なかでも衣文線に金泥を用いて衣装の量感を表したり,直衣の黒地に膠を混ぜた顔料で文様を描き,浮織を表すなど,専門的に大和絵を学んだ絵師にしか描けない表現が散見できる。しかしながら,人物の動きはぎこちなく,その体艦は頭が大きくバランスが悪い。また,樹木や土披も定型化し,生彩を欠いた感は否めない。そのため,本縁起の制作にたずさわった絵師は,土佐派や狩野派に直接所属していたというよりは,その周辺の絵師であったと推測される。さて,本縁起の絵画部分において特徴的なのは,ストーリーの内容を理解しやすく,かつ盛り上げるための工夫がなされている点であろう。例えば,登場人物が混乱しないように主立った人物の顔や衣装を統一したり,話を盛り上げて読者を引き込むため,おかしみを誘うユニークな表情やポーズの人物を登場させているのである。以上のことから,本縁起は布教や奉納に供するため制作された八幡縁起とは性格を異にし,享受されることを主な目的としたものと考えられる。しかしながら,巻子形式で表装にも凝っていることより,不特定多数の読者のために大量生産されたとも考えにくい。先述したように,本縁起の詞書には平仮名が多用され,よみにくい漢字には振り仮名が付されている点,描かれた人物は頭が大きく童子を思わせる体型で,おかしみを誘う表情やポーズをしている点より,当初は大名や武家の子女のために制作されたと考えられる。太宰府天満宮蔵「北野天神縁起絵巻」三巻(紙本着色上巻34.2 X 2006.1,中巻33.9 X 1815. 5,下巻33.9X 1647.1) 本縁起は,元和五年(1619)に完成した天神縁起で,第一巻に付された奥書に「裳杜之縁起三巻國守黒田筑前守就為御所望逍遥院真筆以在之如形雖令写愚憚憚多而己/元和五年七月七日/徳勝院法印禅昌(花押)」とあることより,その制作経緯が知られる。すなわち,本縁起は黒田筑前守が,逍遥院(三条西実隆)真筆の天神縁起を手本に,徳勝院法印禅昌に制作させたというのである。文政年間に青柳種信によって記された地誌『筑前国続風土記拾遺』では,制作依頼者である黒田筑前守を黒田如水にあてているが,かれは元和五年に没しているため,ここでの黒田筑前守とは当時の藩主長政を指すと考えられる。また,徳勝院法印禅昌については,北野杜の社僧徳勝院を指し,本縁起の詞書筆者とみなすことができる。-387-
元のページ ../index.html#398