鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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14)。ここで注目したいのは,奇跡の場面の上に描かれたキリストの描写である。すな画面左下には施しの場面が描かれているか,鑑賞者にとってこれは慈善の勧めと受けとれるが,一方でペトロの「金や銀はないが」という言葉と対比をなす行為となっている。階段の上下で,二つの行為に精神的な価値の位階がつけられているのである。プッサンは,すでに確認したように,ラファエッロの同主題の作品に比肩する作品を生み出すために,ラファエッロに基づくマルカントニオ・ライモンディによる前述の版画〔図4〕と,ハレの版画〔図7〕に創作意欲をかき立てられ,まったく新しい構図を生み出した。ライモンディの版画を全体の建築的な枠組みとして下敷きにしたが,プッサンは画面に平行ではなく,垂直に登っていく階段の踊り場に中心場面を置いた。それによって主人公は中景に置かれることになった。ここには,当然ラファエッロの《アテネの学堂》が意識されたであろうし,また,プッサン自身1639年の《マナの収集》(Th.,no.135) でも似た試みを行っていることを想起したい。プッサンは中心人物を画面の中心に置くこと,あるいは人物配置によって際だたせようとしているが,配色についても注意深い調整が図られている。プッサンの色彩の使用法について補足すると,彼は重要な人物には光の強さに応じ彩度がもっとも高まる色相を選んで用いた。ここでもその原則は守られており,前景のもっとも強い光を浴びている人物にはその場合にもっとも彩度が高くなる原色を用い,踊り場にいる距離的にはやや奥まった位置に配された人物にはやや弱い光でも彩度の高くなる中間的な色相が選ばれている。そうすることによって,彩度の高い鮮やかな色彩が画面一面に用いられることになり,画面の平面性が保持され,配色による形象間の照合を可能にしているのである(注13)。ここで結論めいたことを先取りすれば,プッサンは,人間と神との関係についての思索を試みているのであり,当該の典拠のみでは不明瞭な意味や理念を絵画的な手段を用いて日に見えるようにしようとしているのである。ラファエッロのタピスリーも,ハレの版画も,状況描写としては今ここで起きた奇跡の瞬間をあたかもその場に居合わせたように描写している。ここでプッサンのエ夫を考える上で比較の対象となるものが存する。ジャック・カロによるチゴリ《足萎えの男を癒す聖ペトロと聖ヨハネ》に基づくエングレーヴィング版画〔図10〕である(注わち,この奇跡が聖ペトロの力ではなく,キリストの力に起因することが非自然的な-395-

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