手段を用いて強調されているのである。ラファエッロのタピスリーでは,システィーナ礼拝堂全体のプログラムの中で神の代理人たる法王の始祖聖ペトロの事績の偉大さを称えるためにそうした側面は切り捨てられている。プッサンでは典拠から逸脱して聖ヨハネが男の手を取っているが,作品の置かれる場や注文者を考えると使徒の役割は相対的に低くなっており,その典拠への忠実度はここではそれほど重要ではなかったにちがいない。ここで,プッサンが常々非自然的な手段を用いないで神の顕現を喚起するためにいかに工夫を凝らしたかを思い起こしたい。プッサンは《キリストの洗礼》や《エルサレム落城》でそれぞれ図像的な伝統の枠内で巧みに造形的手段を駆使し神の顕現を喚起しているのである(それぞれ,『研究紀要(愛知県美術館)』2号(1995),『日仏美術学会会報』14号(1994)所収の拙稿を参照)。プッサンの作品では,ベトロではなく,ヨハネが足萎えの男の手を取っている。ヨハネは左手を挙げ,治癒の力の源泉を示している。ペトロの真っ直ぐに突き出された右手はまた,彼が神の言葉に貫かれていることを示している。ペトロとヨハネが神的な力の媒介者にすぎないことが示されているのである。さらにプッサンの作品では,彼らの役割と神の力をカロの版画におけるような非自然的な手段に訴えることなく別の手段でいっそう効果的に喚起している。まず第1は,階段の象徴的な利用である。ここでは《階段の聖母》(Th.,no.172) で培われた「天に至る階段(scalacoelestis)」の経験が生かされ,天から地上への階層関係が見事に構図に統合されているのである。中心場面の周囲には,この奇跡に対する様々な反応が描かれている。聖ヨハネの左には,老女に施しをしつつ呆然と奇跡の光景を眺める男,ペトロの右には両手を広げ奇跡を見据える男が描かれている。この作品で,もっとも注目すべきは画面右手の階段上ですれ違う二人の男の役割であろう。特に階段から降りる「茫然自失の」(注15)白髪の男についてはその役割に異論がある。例えば,バロウはこの奇跡に嫌悪感を抱いた男と考え(注16),奇跡を訴しげに見守る否定的な人物と解した。さらに,役割については言及がないが,ヴィルトはこの人物は「プッサンにおけるまったく新しい人物類型」であるとしている(注17)。ここで筆者は,このすれ違う二人が奇跡の積極的な証言者であり,鑑賞者の関心を第2は,奇跡の証人たちが巧みにここで用いられていることである。-396-
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