鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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を中心場面につなぎ止め,さらに物語の深い意味についての思索へ誘う仕掛けと解したい。ここで注意を促しておきたいのは,《キリストの洗礼》(Th.,no.130)〔図11〕における奇跡を証しする人物である。そこでは,《足萎えの男》の白髪の男と顔のタイプの似た男が,左手を天に向かって挙げている。興味深いことに両者は赤と青の長衣をまとっている。ちなみに,プッサンは三原色を多くの場合主題にポジティヴな役割を担う人物に用いている。また,《洗礼》の白髪の男の左には,白髪の男と顔を見合わせ,中心場面の方へ左腕を突き出している男がいる。これは,《足萎えの男》の階段を登る若者と同じ役割をしている人物である。いずれの場合でも,若者が中心人物を指し,老人がそれに応えるという形であることは興味深い。もちろん,両者には相違がある。《足萎え》では,老人が天を指していないからである。既に,天を示す行為は聖ヨハネが行っており,ここでは,むしろ側面から中心場面へ鑑賞者の関心をつなぎ止めているのである。以上の考察を経て,プッサンのこの作品の生成過程については次のようにまとめられるのではなかろうか。すなわち,プッサンはラファエッロの先例から独自の構図を生み出すために,マルカントニオ・ライモンディの版画,さらにはラファエッロの《アテネの学堂》を下敷きにして,プッサンの神の顕現の喚起への志向性が階段を用いた階層性の喚起という創意を生み出し,プッサンに独自の「配置の発見」につながったのではないか。さらに,フィリップ・ハレの版画の中心人物を,中心場面の奇跡を証しし鑑賞者に働きかける人物として転用しているのである。この小論では《足萎えの男を癒す聖ペトロと聖ヨハネ》を一例に,これまで指摘のなかった視覚的な源泉を提示し,構図の生成過程について考察を試みた。ここから改めてわれわれが留意すべきなのは,主題の潜在的意味を観念の次元ではなく可視的に一挙に提示するための構図の調整に要したプッサンの熟慮の大きさである。またここで,われわれは単なるソースの列挙ではなく,構図の生成過程を問題にすることで,形態論と意味論とを切り離すことなく考察できる可能性についても示唆できたのではなかろうか。今後も各作品の図像学的な探査とモティーフの借用関係の調査を進めるとともに,プッサンの語り口の独自性を浮き彫りにしていく努力がなされれば,未だ* -397-

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