鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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コウノミサオコウノミサオ—高野三三男の場合—⑪ パリの日本人画家研究者:目黒区美術館主任学芸員矢内みどりはじめにここでは第一次世界大戦後から第二次大戦にかけてパリがまだ華やかな時代に滞仏した画家,高野三三男(1900-1979年)の調査を主とする。高野は1924(大正13)年から1940(昭和15)年までパリに住み,藤田嗣治(1886-1968年)に師事した。えられる画家,高野三三男,板東敏雄,小柳正などについてはこれまで本格的な紹介がされていない。特に高野三三男については,フランスでの活躍や,戦後の日本の画壇での地位にもかかわらず,今日まで調査研究の対象となりにくかったのは何故なのだろうか。これまで未聞であったこの作家の海外での活動と評価を調査し,その日本美術史の上での位置を再検討することは菫要であると考える。また,この作家に何故に今まで日本での評価が正確に下されなかったかを探ることで,日本美術における西洋美術の受容が抱える問題点をも考察していきたい。この調査にあたっては,高野三三男長女の高野耀子氏のご協力により,氏が保管していた作品,資料,写真,文献,書籍など検分できた。しかし,第二次世界大戦の戦禍を避けて引き上げてきたこの作家は,「大作と言う様なものは全部巴里のアトリエに残して来」た(注1)ことや,フランスで多くの作品がコレクターのもとにあると推測されることもあり,現地での作品調査,資料調査などを平行して行なった。フランスでは,コレクター,画廊,オークションなどで作品を実見し,図書館・資料館で文献等を調査,また関係者にインタヴューを試みた。1.渡仏するまでの高野三三男とその環境高野三三男は,1900(明治33)年3月30日に,父重三と母むらの三男として東京市深川区富川町2番地(現,江東区森下4丁目)に生まれた。三三男(みさお)の名はこの3の数字にちなんでつけられた。高野家は運河沿いの約3千坪の敷地で高野鉱油製造所を営んでおり,当時まだ高級品であった電話を引き,使用人には自転車を使用1920, 30年代に在仏した日本人画家は数多いが,藤田嗣治と芸術上の影響関係の考-404-

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