2. 1920, 30年代のパリ1920年代のパリには,絵画のイズムの主張よりも,世界各国から集まった作家たち1913年に渡仏した藤田嗣治もそのひとりで,1920年のサロン・ドートンヌでその裸婦3)'翌年の1924(大正13)年に岡田謙三や,後に妻となる岡上りう(1896-1969年)させるなど,時代を先取りした家風と財力を備えていた。江戸時代には芭蕉の庵があった深川も,この時代になると水路を利用した新しいエ場が建ち,新時代を呼吸する街となっていた。また,この地から外国人居留区であった築地や,当時最も栄えた繁華街であった浅草も,隅田川を越えれば至近距離であった。そしてこの頃は,東京が都市としての姿を形成する最も活気にあふれた時代で,19世紀末からの欧州での万国博覧会を受けて日本でも盛んに勧業博覧会などが開催され(注2)'物産品や芸人など海外との交流が行われた。高野三三男はこうした環境のもとで生まれ育ち,東京府立第一中学校を卒業した後,東京高等商船学校に入学,3年間在籍したがここでの勉強が肌に合わず退学,1922年に東京美術学校に入学した。同期には,小磯良平,荻須高徳,猪熊弦一郎,岡田謙三などがいた。高野は実家の広大な敷地の一角の洋館のアトリエで制作に励んだが,2 年生の秋,関東大震災が起きてからは東京で落ちついて絵を描くどころではなく(注と同船で,渡仏することになる。の風土性や個性を打ち出した,いわゆる「エコール・ド・パリ」の画家たちがいた。の肌を称賛され,翌年審査員になるなどフランス画壇での地位を確かなものとしていた。しかし,1922年に藤田が日本で帝展に出品した「わが画室の内にて」は,初め一般入選作品として扱われ,日本画壇における国際的評価とのずれを明かにしめすことになる。この時代の美術は,絵画や彫刻,版画などだけではなく,文学,写真,建築,ファッション,工業デザイン,映画・舞台美術など総合的なとらえ方ができることに特徴かある。美術家が宝石のデザインや映画制作,舞台美術などを手がけることも多かった。それは,パリで開催された「現代装飾工業美術博覧会」にちなんで「1925年様式」ともいわれた,いわゆる「アール・デコ」という時代精神である。そしてこれはパリという国際都市の全体的な雰囲気を示したものでもあった。-405-
元のページ ../index.html#416