(2) 高野とアール・デコカタログで「今から十五年程前巴里へ行った時,……その時から君の人となりを識るようになった。……十年後再び巴里へ行ってみると,君は藤田君の後継者のような画壇の地位に坐ってゐた。」(注11)と書いている。高野自身も「渡仏後三年はどして発表した作品が,どうしたわけか多大の好評でやがて一流の画商も付き生活も安定したわけだが」(注12)と言っている。また薩摩治郎八もその著書において「彼はいわゆる巴里批評家の称する今様グルーズ的の画風に進展し,ヴェルレーヌ的詩想で,仏蘭西観賞家の趣好に投じた。彼の趣味はあくまで巴里人趣味で,彼の讃美家は,彼が一種の巴里女の型を造りあげた,といっている。粋人的好事家からも珍重され,批評家からも買われた彼は,稀にみる幸運児であった。彼だけは何時巴里に返り咲いても,めしの喰える日本画家である。」(注13)というようにそれを裏づけている。第1回在仏日本人美術家展に同じく出品した画家関口俊吾も当時をふりかえって「高野三三男の作品はその展覧会が始まるとフランス人にすぐに売れ,また補充したがそれも売れた。藤田は別として日本人には珍しく人気のある画家であった。」と語っている。また今回訪問したフランスの画廊やオークションの担当者にも同様の意見が多かった。今回調査できた文献資料はまだ完全ではないので,当時の評価をすべて明確にすることはできないが,現時点では,Mii;aoK6noのフランスでの一般的評価は日本人としてはかなり高いものであったし,現在もそれが継続していることが推測出来る。現在,フランスで高野作品を扱う画廊,オークションはアール・デコ専門の所が多数であることに特徴がある(注14)。その理由として,年代的に1924-1940年の作品ということもあるが,高野作品の持つ「装飾性」「大衆性」が大きな要素と考えられる。アール・デコの研究者ヴィクター・アーワスは,その著書(注15)の中で高野三三男に言及し,アール・デコの「かわいい女prettygirl」のイメージを版画などでひろめた作家のひとりとして挙げているが,その代表的な作家はルイ・イカールであるとしている。また彼はアール・デコのムーヴメントに応じた画家たちを育てたのがボルドーの街であるという説を述べている。その中のひとりジャン=ガブリエル・ドメルグ(注16)は,ボルドーの美術学校出身で,名士の肖像やヌードを描き,典型的なパリジェンヌ像を作り上げ,1925年の装飾美術展ではボルドー・タワーにあったレストランの天井用の4点のパネルを描いている。高野三三男はイカール程大衆的でなく,むしろこのドメルグに画風やモチーフが近-408-
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