鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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(3) 高野とパリ杜交界とエレガンス(4) 高野と雅びなる宴,そして文学(5) その他の作品(6)都市の画家としての高野いと考えられる。1924年に渡仏した高野が1925年の展覧会に赴き,ドメルグの天井画を見た可能性かある。前記のように高野が1926年のサロン・ドートンヌに装飾パネルのエスキースを2点出品していることは偶然とはいえないだろう。1930年のジョルジュ・ベルネームの個展のパンフレットによれば,出品作品25点の内,9点は非売品でそれぞれ所蔵者が記入されており,コメディー・フランセーズのドリヴァルは3点所有している。また,1935年のサロン・デ・ザンデパンダンやサロン・デ・テュイルリに2人の男爵夫人の肖像を出品しているなど,名士やその家族を描いた作品も多い。これはパリ社交界で活躍した薩摩や藤田からの影響も考えられるが,高野自身がこうした社会に受け入れられるエレガンスについての素養を持っていたと言えるだろう。1929年の「S夫人像」は,薩摩の最初の妻千代子がロココ風の衣装で描かれている。高野がこうした18世紀のヴァトーやフラゴナールに傾倒していたことは,(1)においても述べた。こうした「フランスの伝統的優雅」について深い理解と共感を抱いていた。またパリ時代から晩年まで描き続けたアルルカンは,イタリア喜劇(コメディア・デラルテ)の道化役で,菱形模様の服を着て黒いマスクを着けていることが多い。1930年に仏政府買い上げになった作品「仮面舞踏会の夜」も同様のモチーフと考えられる。こうした分野での教養があったことも明らかである。そして,19世紀の文学についても「ボードレールの『悪の華』のさしえを描くことが生涯の念願」(注17)であるという発言が伝えられている。高野のフランスでの主なモチーフは前述のように名士とその家族の肖像,裸婦,モダンガール,花,アルルカンなどであったと考えられるが,時代の潮流であった構成的,シュルレアリスム的作品も数少ないが制作している。構成的な「ヴァイオリンのある静物」〔図6〕などは高野の作品の知的な側面を示している。また在仏中のデッサンにおいてはこうしたモチーフを多数見ることができた。こうしたパリの都市文化に敏感に反応し,時代の雰囲気を取り込むことができたのは,高野に都会人としての感受性が備わっていたこと,美術のイズムのみにこだわら-409-

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