鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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4.帰国後の高野三三男1940年に帰国し滞欧作品展を開催するが,当時の日本は軍国的で,華やかで官能的ない柔軟性と近代的自我の確立があったこと,などが挙げられる。高野はパリで美術を学ぶことに興味はなく,あくまでもプロフェッショナルとしての自覚を初期から持っていたと考えられる(注18)。(7) 藤田と高野日本人としての個性の実現とパリでの成功という点では師として多くを学んだ藤田に続いた。そして両者は日本絵画の良い意味での「装飾性」を十分にいかしている。この時代のパリはその「装飾性」を肯定的に受け入れる土壌があったのだ。しかし,藤田が象徴的な線描と抑えた色彩において水墨画的であるとすれば,高野はその華やかな色彩と官能性,同時代性において浮世絵的である(注19)。藤田と高野のこうした日本的な要素が,かえって日本でよりもフランスでの評価が高いという結果をもたらしたのではないだろうか。もうひとつ藤田との共通性は,裸婦の肌の独自の表現である。これについては,高野は唯一藤田の制作を手伝った画家であることを語っており,また年代を経た作品に同様の亀裂が生じることがあることからも,油彩の絵の具の構造の類似が考えられる。しかし,この件についても今後の詳細な調査が必要である。ここで言えるのは藤田のストイックな表現に対して,高野は独自の官能的な表現が際立つことだ。な高野の作品を受容する雰囲気はなかったことが推測できる。高野は,従軍画家として主に中国に派遣されて風景,人物などスケッチを中心に制作した。また,主としてー水会に出品し,文展審査員,日展審査員など歴任する。1954年には現代日本美術展で大衆賞を受賞する。大田区南馬込のいわゆる文士村にアトリエ兼住居をかまえ,1979年に亡くなるまで裸婦,アルルカン,花,壷,風景など描いたが,最も特徴的であったのは,女優など華やかで時代の雰囲気を体現するような女性の肖像である。これは,高野のパリ時代の優雅さをわずかに感じさせる世界であるが,戦後東京のややアメリカナイズされた都市のモダニズムの表現でもあった。-410-

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