鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
422/747

注(1) 1940年9月20日ー24日,銀座日動画廊での「一水会会員高野三三男画伯滞欧(2) 1907年に東京勧業博覧会(上野公園),1914年に東京大正博覧会(上野公園)開催。(4) 薩摩治郎八:1901-76年。1929年にパリ大学都市に日本会館を寄贈。(13)「せ・し・ぼん我が半世の夢」(薩摩治郎八1950年山文社発行)(14) オークションカタログ“ART-NOUVEAUART-DECO" TAJAN 1996 3月16(7) MONTMARTRE AUX ARTISTESという,アトリエに簡単な住居がついた大おわりに高野三三男の主にパリ時代について述べてきたが,調査はまだ道半ばであり,不明な点も多く,引き続き継続する予定である。特に,当時のマスコミ評や美術評論などについてもまだ手付かずの状態であるため,今後の課題となる。しかし今回で確信を得たのは,高野作品の質の高さと多様性,画家としての一貰した姿勢である。パリのエッセンスを個性的に体現し,特異な業績を残した興味深い画家であり,日本での評価が再考されるべきであると考えた。作品展」図録より(3) 「関東大震災で世を挙げて復興復興と騒ぎの中で焼跡など描いていると,この不遜のヤカラめと白眼視されるつらさに…」一水会史I (1983年一水会発行)より(5) サロン・デュ・フラン:当時のジョッフル元帥の名において行われた一種のチャリティー。作品を寄付し,それを売って資金にした。(6) 藤田を中心とするグループの展覧会。薩摩治郎八がパトロンであったため薩摩派と呼ばれ,福島繁太郎のグループである福島派,巴里日本美術協会と対立していた。きなアパルトマン。ここには荻須高徳も住んでいた。(8) パリ,ベルネーム・ジュヌ画廊で,藤田,高野,板東,浜口陽三,荻須,岡本太郎,岡鹿之助など63名の日本人作家によって開催された。(9) パリ,シャルパンティエ画廊にて開催。(10) 当時ベルギーのペルー全権公使で文学者。(11) (注1)を参照。(12) 一水会史Iょり-411-

元のページ  ../index.html#422

このブックを見る