(1590■1600年代)・絵唐津(1600■20年代)•朝鮮唐津(1600~20年代).叩き唐津(1600■20年代)・織部(1605■20年代)・三島唐津(1610■1700年代)・ニ彩唐津(1610■1700年代)•初期伊万里(1610~1640年代)・御深井(1620~50年代)1570■80年代1590年代なまとめができる。下線部は肥前のほうである。瀬戸黒(1570■80年代)・黄瀬戸(1580■90年代)・志野(1590■1600年代)・斑唐津この項目を見ながら,美濃と肥前を年代順に比較分析したい。この期間は唐津焼の草創期であり,窯数が少ないため生産量も多くはない。岸岳系の古窯跡は3基あり,登窯の初期の形態である割竹式である。古窯跡から出土するのは土灰釉による灰緑色の皿,藁灰釉による白濁した釉のかかった皿,褐釉の叩き徳利などがある。美濃焼のほうは大窯III期からIV期にあたり,瀬戸黒茶碗,黄瀬戸の茶碗や向付が現われる。瀬戸黒茶碗は長次郎の楽茶碗に影響を受けたものである。黄瀬戸の向付は,茶l衷石の道具であり,それまでの食器には見られなかった器形である。美濃焼が茶の湯の流行に応じて変化しているのは,大窯の初頭から天目茶碗や茶入を作り続けてきたことから理解できる。一般の日用雑器である製品と茶の湯で用いる茶陶は区別して取り扱わなければならない。唐津焼の場合,窯跡から出土する陶片は雑器がほとんどで,茶陶などの趣味的なやきものは極めて少ない。岸岳の飯洞甕下窯から出土した彫唐津茶碗は例外的なものである。美濃の大窯においても日用の雑器生産が主たるものである点は唐津と共通している。茶陶はあくまでも特別のものであり,注文者の意向に応じて制作されたと考えられる。茶の湯の世界では,天目茶碗に代表される唐物から,佗び茶の精神にあった高麗茶碗や和物へ移り変わる時期である。千利休によって完成された佗び茶は,独特の美意識による意匠を生み出した。それらは地味ではあるが力強く,自由な表現による造形を開花させた。1570■80年代はその萌芽の時期である。美濃の1590年代は,志野が出現する時期である。窯の編年では大窯V期になる。志野は鬼板と呼ばれる酸化鉄の顔料で絵付けし,長石釉をかけたやきものである。やきものの釉下に筆で文様を描くというのは,それまでの我が国のやきものにはなかった。-417-
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