1600■10年代この期間は織部の時代である。志野の技法が織部へ引き継がれ,桃山の茶陶はピークを迎えた。美濃焼の編年では,連房1期が1605年から1630年であり,この期間に含まれる。織部はそれまでの日本のやきもののなかでは,最も華やかで多様な表現のなされたやきものである。織部は,釉薬や作調によって以下のように分類されている。織部黒(瀬戸黒と同じ釉薬だが沓形などの織部好みの形の茶碗に限定される)•黒織部(黒釉を部分的にかけ,窓に鉄絵の文様を描いたもので茶碗に限定される)•青織部(器の両端に銅緑釉をかけ,窓に鉄絵の文様を描いたもの)・総織部(全体に銅緑釉をかけたもの)・赤織部(淡朱色の素地に白泥で文様を描き,縁を鉄絵具でなぞったもの)・鳴海織部(白い土と淡朱色の土を接合し,白い土の方に銅緑釉をかけ,淡朱色の土に白泥で文様を描き,縁を鉄絵具でなぞったもの)・志野織部(白い素地に鉄絵を描き長石釉をかけたもの)・伊賀織部(美濃伊賀ともいい,美濃の土を用いて伊賀焼ふうに作ったもの)・唐津織部(美濃唐津ともいい,鉄分の多い土に鉄絵を描いたもの)などがある。またほかに鉄釉のものや,御深井と呼ばれる灰青色の釉薬からなるやきものがあり,広義の織部に含められる。織部は色彩と文様を同時に開花させたやきものである。古田織部は千利休亡きあと茶道界をリードし,織部好みの意匠を多く生み出した。やきものの分野でも古田織部の影響は大きく,デフォルメした形態シンプルで奇抜な文様,豊かな色彩のやきものが生み出され,美濃においてはこれらの意匠は総称して織部と呼ばれた。織部は日本の陶磁器の歴史にはかつてない独創的なやきものであった。しかし織部に用いられた技法は,基本的には志野においてすでに実現されている。鉄絵は志野において始められ,型を用いた変形の向付も志野にある。緑釉は1550年代に美濃で始められている。泥漿で装飾するのも,鼠志野でなされている。これらの技法を集約し完成させたのが織部であった。また伊賀や唐津を写し,他産地のやきものの様式を織部に取り込んだ。織部と唐津を比較してみると,同時代のやきものとしては,織部の方が洗練されており,茶陶としての種類が多い。唐津の茶陶は,前述したように日用雑器の生産量に対して極めて少ない制作量である。絵唐津には,織部のような複雑な文様は少なく,反対に織部の文様を簡略化したような文様が絵唐津に見られる。また織部のように茶碗を歪ませた沓茶碗は唐津にもある。この特異な形は,明らかに同時代の趣味であり,一般には古田織部の好みによって生まれた意匠と理解されている。-420-
元のページ ../index.html#431