鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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織部を特徴づける銅緑釉は唐津にもあるが,織部のように鉄絵と組み合わせることはなかった。唐津の鉄絵には織部と共通する文様はあるが,織部のように銅緑釉を鉄絵に付加はしていない。もっとも二彩唐津のように鉄釉と銅緑釉を大鉢に柄杓掛けするような装飾は,1610年代ごろには現われている。しかし鉄絵を描かず,刷毛目や櫛刷毛目の文様と組み合わされた。同じ技術がありながら組み合わせ方に地域差が見られる。また織部の時代に重なる三島唐津の象嵌技法が,織部に見られないのも不可解である。唐津の象嵌技法は,朝鮮の粉青沙器の象嵌と類似しており,朝鮮からの技術導入と考えられる。茶の湯の世界で象嵌のやきものは好まれたため,織部で制作されても不思議はない。しかし現実には織部で象嵌は見られない。技術上の問題があって象嵌ができなかったのであろうか。しかし白泥は織部で用いられているから,象嵌の材料はそろっている。織部の自由奔放な絵画的な表現と,地味で堅い印象の象嵌による表現は相いれないものがあったのであろうか。織部は連房式登窯で焼成された。1605年ごろ唐津の登窯の築窯技術を持ったエ人が美濃に招聘され,初めて肥前式の登窯が導入された。この最初の窯が久尻の元屋敷窯である。これにより,美濃は大窯から連房式登窯へ移行してゆく。登窯を導入した理由は,大窯より量産できるためと言われている。しかしこの時点で流通商品としての美濃焼は唐津焼に追い越され,その後もシェアを狭められている。例えば大坂城で出土する1590年代の施釉陶磁器は,53%が中国の染付磁器,43%が美濃焼,1%が唐津焼であるが,1600年代になると中国の染付磁器は30%,美濃焼は22%,唐津焼は39%に急増している。茶陶の需要に応じ,趣味的で多様なやきものを生産した美濃は,志野や織部という桃山時代のやきものを代表する工芸品を生み出したが,生産量においては唐津に追い抜かれたのである。唐津は登窯という量産性にすぐれた窯をもち,茶陶よりも量産品の方に力を注いだため,産業的には発展した。1620■50年代この時期の美濃焼は織部が衰退し,淡い灰青色の釉薬をもつ御深井が盛んとなる。作品の形からして,中国の青磁や白磁を目指したのは明らかである。また型を用いた変形の皿類は,伊万里焼の白磁と似たものがある。1610年代に肥前で伊万里焼が始まると,これらは急速に流通し始めた。磁器の入手は,伊万里焼が始まる前は中国や朝鮮からの輸入によっていた。しかし伊万里焼の流通によって,中国や朝鮮からの輸入-421-

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