まだら扱われているかを見ておきたい。「筆触touche」という語は,ドラクロワの絵画を論じたポードレールの文章などに認められるものの(注4)'モネを含む印象派に関する当初の批評にはほとんど見当たらない。しかし同時代の批評家たちが,印象主義絵画の筆触表現に注意を払わなかったわけではない。印象派展があいついで開かれた1870年代の批評では,「筆触」の代わりに,「斑tache」という語がしばしば用いられている(注5)。たとえば1874年に開かれた第1回展に関する批評では,ルイ・ルロワが,《キャプシーヌ大通り》に見られる群衆の筆触表現について,「無数の黒い涎のようなもの」と嘲笑し,「これらの斑は,噴水の花尚岩に漆喰をなすりつけるのと同じやり方だ」と酷評している(注6)。ここでは「tache」を「斑」と訳したが,この言葉は一般的にはしみや痣といった意味をもっている。ルロワの文章がモネの絵画を風刺した記事であることを考えると,この場合は「しみ」とした方が適当かもしれない。つづいて1876年の第2回展の批評では,マリウス・ショムランが印象派を「マネが創始者であるところのく斑派l'ecoledes taches〉」(注7)と呼んでいるのが認められる。彼の文章は印象派の反アカデミスムの性格を強調したものだが,「斑」という語に必ずしも侮蔑的な意味は窺われない。そしてショムランが「斑」という言葉を強調して用いていることは注日されなければならないだろう。このように1870年代の印象主義に関する批評では,「斑」という言葉が,ときには嘲笑する意味合いも込めて使用されているのが見られる(注8)。一方,印象主義に関連する批評に「筆触」という語が明確に使われるようになるのは,フェリックス・フェネオンが1886年から1887年にかけて,おもにスーラやシニャックらの新印象主義の作品について論じた文章である。フェネオンは1886年に開かれた最後の印象派展(第8回展)の展評で,印象派が色彩を「分解」したのに対して,スーラたちは色調を「分割」すると指摘し,視覚混合の考えを中心とした彼らの制作方法を具体的に説明するなかで「筆触」の語を用いた(注9)。また彼は同年の別の批評で,印象派の方法を「自由な筆触」による「いくぶん恣意的」なものだと批判する(注10)。そしてフェネオンは翌1887年に発表した批評で,「色調の科学的な分割に基づく」スーラの手法について再び記し,「分けられた筆触」を色彩理論にしたがって画布上に置いてゆく手続きを説明した後に,「これらの箪触は絵筆の一掃きによるのではなく,細かな色斑(tachescolorantes)を種をまくように施したもの」であると指摘している(注11)。彼はこの批評の終わりで「印象主義のうるわしき時代は過ぎ去った」-435-
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