鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
449/747

3.「現在」を描くことと認められる。モネはこの時期,筆触による表現を絵画制作の中枢に位置づけるようになったと言えるだろう。《ラ・グルヌイエール》は,パリ市民がセーヌ河畔で水浴を楽しむ情景を描いている。画面には,光を反射させる水面の波の表情や風に揺れ動く樹々の様子などが,筆触によって描き出されている。この絵では筆触単位による表現が画面全体に見られるが,それらの筆触の形状はさまざまである。たとえば画面前景の水面では矩形や水平に細長い形,中景の樹木の葉の部分にはコンマ状のもの,対岸の林には掃いたような筆触が認められる。モネは対象の形態や様相に応じて,自由に筆触を使っている。このような筆触表現については,今日にいたるまで,しばしば「自発的」という形容がされる。この形容詞が「印象」という語と同様にもつ曖昧さと,筆触表現の特質がもっぱら即応性に求められたために,印象主義絵画における筆触の意義が十分に検討されなかったのではないだろうか。おそらく「自発的」という語には,受動性と能動性の両方のニュアンスが込められていると思われる。これらの筆触は,現実から受ける感覚に対応して生み出され,対象の様相にしたがって多様な形状を見せている。そして筆触は,水面や木立といった対象を指示してはいるが,再現的イリュージョンのなかに消え去ることはなく,絵の具という物質として,すなわち外界にはない絵画固有の要素として,画面上に実在し続けている。そしてそのような筆触は,画家の身体とカンヴァスが接するところに生成するのにほかならないだろう。この時期のモネの制作における姿勢は,自身の感覚が受けとめたものをいきいきと描き出すことにあったが,その感覚は現実に対して開かれると同時に,作品というもうひとつの現実(筆触は絵画固有の要素である)に関わるものでもあったと考えられる。先に紹介したように,1870年代当時の批評では「筆触」の代わりに「斑」という語がしばしば使われたが,ここに見られるように筆触の形状がさまざまであったことも,後者の語が用いられた一因であるだろう。そしてシニャックは,印象主義の筆触が不統一であるのに対して,新印象主義は「分割された筆触」であると主張した。フェネオンやシニャックが筆触に済目した背景についてはさらに検討を要するが,新印象主義が採用した手法は近代絵画の展開のなかで重要な節目になったと思われる。なぜなら,彼らの「分割された筆触」,すなわち点描はまった<抽象的なものであり,絵画が-438-

元のページ  ../index.html#449

このブックを見る