鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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自律性を指向する決定的な契機となったからである(この問題については,20世紀絵画に対する影響を含め,稿を改めて考察したいと思う)。モネの作品の考察に戻ろう。第1回印象派展に出品された《キャプシーヌ大通り》〔図6〕の筆触表現について,ルロワは「斑」という言葉を用いて嘲笑したのだが,エルネスト・シェノーは展評のなかでこの作品を取り上げ,モネの新しい方法をつぎのように評価した。「捉えがたいもの,消えやすいもの,すなわち運動の瞬間なるものが,その流れ去る性質のままに描きとめられたことはかつてなかった」(注15)。彼が指摘しているように,モネが筆触によって,大通りを歩く群衆の活気を描こうとしたことは言うまでもない。そしてシェノーの文章は,明らかに,ボードレールの「モデルニテとは,移ろいやすいもの,消えやすいもの,偶然的なもの」(注16)という主張を踏まえたものだと思われる。モネは1865-66年の《草上の昼食》以来,近代という新しい時代の様相を積極的に描こうとしてきた。筆触表現の特質はともすれば自然の変化を描きとめることだけに求められがちだが,むしろモデルニテを描こうとするモネの一貰した姿勢と結びついている。ボードレールは,モデルニテを主題にした絵画について,「現在が表現されているのを見て私たちが味わう歓びは,現在が身にまとうことのできる美によるだけではなく,現在が現在であるという本質的な特性にも基づく」(注17)とも述べている。ポードレールの指摘に則して考えるならば,モネにとって「現在」を描くことは,《草上の昼食》ではまだ「現在が身にまとうことのできる美」を描くことに重きがおかれていた。これに対して,《ラ・グルヌイエール》や《キャプシーヌ大通り》では,モネは「現在が現在であるという本質的な特性」,つまりモデルニテのもつ移ろいやすさや消えやすさをこそ描き出そうとしている。言い換えれば,モネは現在を主題とするだけではなく,表現の方式(モード)としての「現在」を求めたのであり,そのことが筆触を制作の中枢におくことを彼に要請したのである。そして筆触が画面上に絵の具として実在し続けるものであることが,この方式を支えるのだと言えるだろう。第1回印象派展に関する批評のなかで,ジュール・カスタニャリは,「風景を描いたがらではなく,風景がもたらす感覚を描いたがゆえに,彼らはく印象主義者〉なのである」(注18)と述べ,印象主義の定義を「感覚sensation」に求めている。カスタニ結び-439-

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