鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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本の制作がある。聖職者以外にも,商家を中心に急速に文字に親しみつつあった市民層が個人の好みで編集したアンソロジーとしての時躊書を持つようになっていたため,「敬虔者たち」の写本工房への依頼は少なくはなかったであろう。質素を旨とし,教会音楽のポリフォニーすら拒絶していた彼らが写本装飾をどのようにとらえていたかは不明であるが,彼らも挿絵を描いていたということはわかっている。私的に使用される時疇書の巻頭には持ち主の肖像が描かれることが多く,たいていは寄進者としてのポーズをとっている。残念ながら今回はこうした写本についての情報は得ることができなかった。さて,修道院のような日課に基づいて沈潜した思考をめぐらせる「新しき信仰」は一見はなやかな宮廷とは無縁であるかに思われる。しかし意外にも,ブルゴーニュ侯の宮廷は彼らと頻繁に接触していたことを,ホイジンガが指摘している。領主の妻ベアトリス・ド・ポルトガルは,宮廷の花形でありながら,ひそかに毛襦袢を身につけ,断食をし,わらの寝床にやすんだと伝えられている。ホイジンガはこの行動を「いわば彼らの発作であり,ご乱行のあとの苦い後味みたいなものだった」と言い,聖と俗の両極端を抵抗なく行き来する中世人の思考形態のあらわれととらえている。「新しき信仰」は厳しくはあっても穏やかで,個人の資質に合わせた労働や祈りを許したため,多くの人を引きつけていった。1383年,市民からの寄進を基盤にデーフェンテルの共住地が整備されたのを振り出しに,ツヴォレ,アムステルダム,ハールレム,ュトレヒトと,現在のオランダ領内にまたた<間に共同生活兄弟団の施設がつくられていった。現ベルギー領内では,1422年ブリュッセルに,1438年ゲントに,学校や兄弟団の施設がつくられている。ブリュージュには「新しき信仰」の正式な施設はつくられなかった。「新しき信仰」の正式な施設こそ設けられなかったが,この頃ブリュージュでも,聖職者以外の市民を対象にした信心会が創設された。それが「枯木の聖母信心会」である。伝承ではブルゴーニュ侯フィリップ善良侯が始祖とされるが,実際には1396年頃にアウグスティヌス派修道会のルベルト・ハウトシルトによって俗人のために始められたものと考えられている。ヘールト・フローテの弟子ラーデウェインスが既存宗教団体からの圧迫を避けるために「敬虔者たち」の活動地を移した場所がアウグスティ3.ブリュージュにおける平信徒の信心会活動「枯木の聖母信心会」-447-

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