ヌス戒律のウィンデスハイム修道院であったことから,ルベルト・ハウトシルトと「新しき信仰」派の間には何らかの関わりがあったのかもしれない。また,同じ頃にゲントにつくられた「枯木の聖母信心会」も,アウグスティヌス派修道院の教会の中に礼拝堂を持っていたことが知られている。活動内容は現存する財務記録からの推測の域を出ないが,構成員が年間金を出し合い,俗人の帳簿係を置いて管理を行っていたようである。年間の支出の中には貧者への施しのパンという費目も見つけられるが,金額としては構成員1名の年間金に等しくたいした額ではない。むしろ週日,祝日,葬送の際のミサを執り行い,自分たちの礼拝堂を維持し装飾することに多くの費用がかけられている。奉仕団体というよりも構成貝間の互助組織といった性格が見受けられる。構成貝は16人で,聖職者の長のほかに,2年ごとに古参のメンバーの中から選ばれる俗人の長を置いた。さらに帳簿係と書記も選挙で決められた。女性の長は晩餐の席を取り仕切る役割を与えられていた。構成員には宮廷人も多く,ブルゴーニュ侯とその夫人,庶子たちをはじめ,フィレンツェやルッカ,ジェノヴァ,スペインからやって来た外国商人たち(その中にはアルノルフィニ兄弟やポルティナリ一族も含まれている),画家,音楽家,金細工師たちの在籍が記録されている。画家の中で名前が挙がっているのは,ペトルス・クリストゥスとヘラルト・ダフィトの両名である。4.「枯木の聖母信心会」をめぐるイメージ「枯木の聖母信心会」の始祖をフィリップ善良侯とする伝承は,構成員間に口伝えで受け継がれてきた。その内容は次のようなものである。フランスとの戦の中にあって状況は侯に不利であるように思われた。そのとき平原の中に,枯れた木とともに立つたおやかな聖母の姿が見えた。侯は直ちに彼女にひざまずき,とりなしを願った。この祈りによって力づけられた侯は果敢に攻撃を始め,ついに完全なる勝利を獲得した。ハルの聖母教会への参詣の後,ブリュージュに凱旋した侯は,聖母への感謝の証として「枯木の聖母」への祈りとともに信心会を設立した。これが「枯木の聖母信心会」の起源である。現存する「枯木の聖母」図像の作例には次の4点がある。第一に,ペトルス・クリストゥス作『枯木の聖母』(ルガーノ,ティッセン・ボルネ-448-
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