鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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先に述べた通り「枯木の聖母信心会」の真の創始者であり,フィリップ善良侯は伝承上の創始者である。ルベルトによってもたらされた文学的霊感源が,戦場での幻視というヴィジュアル・イメージヘと変容した。そこで聖母はなんらの言葉をかけるでもなく,象徴主義的テクストのそのままの具現化として立ち現れている点が,受難文学からの物語的なイメージ化とはきわめて異なっているところである。5.「新しき信仰」と礼拝像「新しき信仰」派の人々の楯となった神学者ジャン・ジェルソンは,ゆきすぎた神秘主義を異端として断罪する中で,神秘家たちがしばしば礼拝像に感覚的に没入していることに,警告を発している。彼にとっては礼拝像はあくまでも「瞑想」の誘発因子であった。まずは目に見えるかたちで神を思うことから始めはしても,いずれは「像」なしに神を「黙想」できるようになる,可視から不可視の階梯を上るレッスンの第一段階が,礼拝像を用いての祈躊なのであった。リングボム(Ringbom,1965)は「新しき信仰」派の宗教芸術概念を述べるに際し,ヘールト・フローテおよびウィンデスハイム修族をサヴォナローラの精神的先駆者と位置づけている。のちにサヴォナローラがするように,ヘールト・フローテは写本装飾を拒否したが,公共芸術である教会装飾は容認したとされる。しかし「敬虔者たち」の集団が書写を生業のひとつとしていたことも事実であり,さらにそれら労働の成果品は兄弟団の付属施設である学校に頒布されていた。こうした兄弟団の学校でジェルソンの勧める礼拝メソッドが習得されていったことは想像に難くない。南部ネーデルラントではブリュッセルに学校が置かれていた。プリュッセルは当時のヨーロッパにおける写本制作の中心地のひとつであり,当地の「敬虔者たち」工房は他の市域に増して積極的な写本制作を行っていたと考えられる。これを裏付けるものとして,ブリュッセルの兄弟団では早くも15世紀後半から印刷による写本制作,換言すれば版画というかたちでの礼拝画像複製を導入していたという指摘がなされている。このことから,「新しき信仰」の人々にとって芸術作品は自らの信仰を陶冶する補助手段であり,教化の道具としての性格が強かったことがうかがわれる。かれらの芸術観にかなう礼拝像は,ゆえに,感情移入を許さない厳格なイコンであり続けた。きわめてエンブレマティックな「枯木の聖母」図像がそのようなイコンのひとつであったかどうかについては確たる証左はない。むしろ,今回の調査で見ることのでき-450-

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