た,同信心会の会員がつくらせた寄進者像入りの祭壇画(ブリュージュの画家『聖母と寄進者の三連祭壇画』,1469年頃,グッゲンハイム美術館所蔵。寄進者はプリュージュ市長であり「枯木の聖母信心会」の1511年から12年にかけての長であったジャン・デ・ウィッテ)は,「敬虔者たち」が忌避する贖宥画像の「ロザリオの聖母」への近接をうかがわせるものであった。俗人への「聖なるもの」の平準化を求めて出発した「新しき信仰」が,はじめの厳格さ,高潔さを失って貪欲な救済祈願へと飲み込まれていく過程が,そこには潜んでいるのかも知れない。15世紀初頭のネーデルラントを席巻した平信徒の修道士化が,宗教改革の急先鋒とその糾弾対象とにやがて分かれていくふたつの道を用意したことはきわめて興味深い。そういった改革の前夜にあって,廷臣の一人として「王の画家」の称号のもとに活動していたヤン・ファン・アイクはどのような立場をとっていたのか。鉾々たる宮廷人を集める「枯木の聖母信心会」に,なぜ彼は名を連ねていないのか。疑問は山積され当初の研究課題にも満足な回答は得られずじまいであったが,今後も資料を読み進めるとともに,「聖なるもの」のヴィジュアル・イメージが平信徒,俗人へと流通していく世紀の様相について探究を続けていきたい。6.今後の課題-451-
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