Vos及びRaeckによればスキュタイ人を描く図像がアッティカ陶器画に最初に現れるのは前6世紀中頃とされる。最初はごく稀にしか描かれなかったが前530年頃から急増し始め,これ以後500点近い作例が制作された。しかし流行は短期間に終わり,前500年頃には減少に転じ,前480年頃には全く描かれなくなる(注1)。陶器画のスキュタイ人は身体にぴったりした上下のコンビネーションを着け,背の高い幅広〔図1〕または先端の細長く尖った,側面と後部に垂れのついた帽子(〔図8〕のアマゾンのスキュタイ帽を参照)をかぶる姿で表される。武器としてしばしば弓矢,戦斧を持ち,ゴリュトス(Gorytos)と呼ばれる口の大きな独特な形の矢筒と,時にペルタ(三日月形の東方風盾)を携える(注2)。〔図1〕は前520年頃の弓矢の射手を表す典型的なスキュタイ人の表現である(注3)。またスキュタイ人は上記の衣装,武器の一部のみを身につける他は,裸体で表されることもある(注4)。ほとんどのスキュタイ図像は戦士を表している。単独ないし複数のスキュタイ人が,騎馬,徒歩,あるいは戦車を伴って行進する様子や,武具の装着,馬の世話,ラッパ吹奏の場面〔図2〕,さらに家族と別れるギリシア戦士の従者としてのスキュタイ人,そして数多くの戦闘場面が表されている。戦闘場面では殆ど例外なく弓矢の射手として描かれる。とりわけギリシア人重装歩兵の傍らに,従者として表される例が多い〔図3〕(注5)。スキュタイ図像がアテナイ陶器画において短期間に集中して表された理由に関して,VosとRaeckは図像分析の結果ほぼ同一の結論に達している。すなわち,前530年から前500年にかけてスキュタイ人が兵士としてアテナイに滞在しており,アテナイ市民にとって印象的に思われた行動,すなわち騎馬や馬の世話,弓矢の扱いなどを中心に,バルバロイのイメージが形づくられたのではないかとされる(注6)。Raeckが指摘するように,スキュタイ図像はほぼ前530年を境にして,それ以前の作例よりも衣装がより写実的に描かれ始め,前500年以降は再び衣装の描出に正確さを欠き空想的要素が交じるようになる。それゆえこの30年間に陶器画家が市内において,たとえ少人数にせよバルバロイを実見する機会を得たとする両研究者の仮説は,説得的に思われる。スキュタイ兵士が前6世紀後半にアテナイに存在したという直接の文献的証拠は,絶対的な資料不足のために残されていないが,アルカイック,古典期における外国人兵士の同市滞在に関しては数多くの証言がある(注7)。いずれにせよ,数にして500点近いスキュタイ兵士陶器画の存在は,彼らのアテナイ居住を前提にしなければ説明が困-453-
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