鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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8)として表されている。このためRaeckはこのVos説に完全には同意せず,私的傭難である。陶器画から推測してスキュタイ兵士がこの期間,アテナイの軍制に組み込まれていたことはかなり確からしく思われるが,ただ彼らが軍隊内において具体的にどのような地位を占めていたのかは推定し難い。Vosはスキュタイ人が国家による公的傭兵であったと見なしているが,前述の様にスキュタイ人は戦闘場面においてしばしば,ギリシア人重装歩兵の戦闘の傍らで弓を引き,あるいはギリシア人騎士の従者,馬師(注兵,あるいは公的傭兵の個人への割り当て,奴隷などの様々な可能性をも考慮すべきであるとする。図像から判断する限り,これらのうち奴隷説の蓋然性が最も高いのではないかと思われる(注9)。2 前6世紀から前5世紀前半のアマゾン図像次にこうしたスキュタイ図像が流行した時代に,アマゾン図像がどのような変遷をたどったのかを観察し,両図像の間の関係について考えてみたい。LIMCのアマゾン図像のカタログの解説は,アルカイック末期のアマゾンの衣装の細かな変遷に関して言及していないが,私見ではアマゾンの神話的イメージの変化はその衣装に最も特徴的に現れている様に思われる。前5世紀までのアマゾン図像の変遷は,以下のように大きく3つの段階に分けて考えることができる。第1の段階は,前7世紀のアマゾン図像の最初の出現から前530年頃までで,この時期のアマゾン族は多くの場合,ギリシア人重装歩兵の装備で表される。短キトンを着用し,防具としてアッティカ式ないしイオニア式兜(コリント式兜は稀),朦当て,そして時に胴鎧を着ける。この時代に成立したアマゾン図像は〔図4〕,女部族の典型的イメージとして古代末期まで繰り返し美術に表現され続けることになった(注10)。注目すべきことにこの第1段階においては,アマゾンを東方民族のイメージと結びつける例は非常に少ない。スキュタイ衣装に共通する背の高い帽子とペルタを有する表現が例外として稀に見られる程度で,この時代のアマゾン図像には現実の民族を暗示する性格がほとんど見られないのである(注11)。代わりにこの段階では,獣皮をマント代わりに着ける例が散見され,巨人族の図像に共通するこの衣装は,女部族の文明に抗う野性的な性格を強調しているものと思われる。すなわちこの時期のアマゾンは,スキュタイ,トラキア,ペルシアなどの東方民族の代表としてよりも,むしろアルカ-454-

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