鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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注(1) わが国において十三世紀から十五世紀にかけて製作された観経変は,現存作例か(2) これらの作例は,製作地,製作年代について未だ充分に議論が尽くされていない(3) 隣松寺本の紀年銘は「龍朔口治三年癸亥」と判読できるが,様式的に唐時代龍朔(4) 十六観変相図の成立と,この二作例をめぐる諸問題については別稿にて発表の予(5) 井手誠之輔氏は,隣松寺本・知恩院本と同じく至治三年の紀年銘を有する作品と(6) この裏書きは,教峯院が表具のみを寄進したとも,表具を施した二幅の画を寄進(7) 序分義図の製作を高麗時代とする最近の論稿は以下の通りである。ら大きく二種類に分けられる。ひとつは当麻曼荼羅の図像を受け継ぐ作品群であり,いまひとつはここで取り上げる中国や朝鮮半島から請来された作品を祖とする一群である。前者は量的に観経変の大部分を占めるが,由緒ある古い図像の再生であり,同時代の東アジアの観経変の展開とは距離を置く,わが国独自の流行である。ので,画中に筆者,紀年銘がある場合を除いて,所蔵者のみを記す。各々の製作地,製作年代の比定については今後も引き続き検討を続けたい。年間の作とは考えられないため,これまで偽銘として問題にされず,李朝時代十五世紀の作とされてきたが,干支との合致から元時代の至治三年(この時期の高麗では中国と同じ年号が使用される)と読むべきとの説が提唱され,筆者もこの説を支持したい。井手誠之輔「高麗の阿弥陀画像と普賢行願品」『美術研究』第362号(平成7年3月)231頁,(注17)を参照。定である。して西福寺本を挙げるが,筆者が調査した限りでは紀年銘は認められないので,ここでは紀年銘のない作品として取り扱う。井手誠之輔,前掲注を参照。したとも読み得るが,関係者として表具に関わった人名(呉服所,求背匠)が記載されるのみなので表具のみを寄進したと捉えておく。尚,樋口家は本姓は藤原,高倉家・水無瀬家の支流。延享年間の当主基康は,延享四年に宮内卿に任じられており,裏書きの記載と矛盾はない。生没年とも,野島寿三郎『公卿人名大事典』(日外アソシェーツ株式会社,1994年7月)樋口家の項を参照。教峯院については『徳川諸家系譜第三』に「女子樋口三位基康室」と記されるのみであるが,没年および名を「水戸家系図」(写本,個人蔵)により補った。-472-

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