鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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⑱ 春信絵本の研究~期彩色摺絵本の研究—研究者:杉野女子大学短期大学部非常勤講師藤澤1.錦絵と春信明和期の美人画界を風靡した浮世絵師,鈴木春信(1725?■70)は,版本の分野にも筆を染め,絵本作家としても多くの作品を手懸けている。春信の名前からは,まず小振りな中判画面の錦絵作品が想起されるであろう。春信が活躍した田沼時代は,各自の身分を超えて自由な文化の交流が盛んに行なわれた時代であった。多色摺の新技法が「錦絵」として一般に普及するきっかけは,趣味人たちの闊達な文化活動の場にあった。明和初年,江戸の趣味人「好事家」たちの間で絵暦の交換会が流行した。絵暦は年によって異なる月の大小を絵画的に示した略暦のことで,贅を尽くし趣向をこらした摺物を競作する過程で,何度も色を重ね摺る多色摺の技法が飛躍的に発展した。版木の角に「見当」と呼ばれる印を付け,日印とすることで色版のずれを防ぐほか,更に用紙にもひと工夫をこらし,重ね摺りにたえ得る厚手の用紙を用いることで一層複雑な多色摺が可能になったのである。当初は好事家たちの間で重宝されたこの画期的な版画技術は,後に「吾妻錦絵」の商品名で広く一般にも売り出された。この折の交換会の中心となったのは3名の趣味人で,大久保巨川,阿部荘鶏の二人の旗本,そして小松軒こと小松屋三右衛門であった。巨川は絵暦交換会の頃より春信を支援した人物であるが,この三名がそれぞれ数百メートルという近隣に居住していたことか,近年の研究で明らかになっている(注1)。彼らの居住地(現在の牛込,飯田橋周辺)と,春信の住居であった神田白壁町(注2)とは数キロと離れておらず,絵暦を機に発展した多色摺技術の開発が,江戸のごく限られた一角で行なわれていたことが実感される(注3)。多色摺の発展期に交換会の中心的な絵師として活躍した春信は,この技術が浮世絵版画に導入されたことを契機に,色彩を自在に操る浮世絵師として名声を得ることとなった。春信の絵師としての軌跡は,同時に多色摺版画の発展の軌跡でもある。版本の分野が多色摺に移行するようになるのは,錦絵登場から5年を経た明和7年(1770)正月のことである。この年は,奇しくも春信の没年にあたる。色彩感覚に秀で,錦絵の発展に大きく貢献した春信においても絵本の主流はあくまでも墨摺で,春紫-484-

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