鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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信作画とされる多色摺絵本は,最晩年と没後に刊行された2冊に止まっている。本稿では浮世絵版画を飛躍的に発展させた多色摺の新技術が,絵俳書,絵暦,そして一枚摺の錦絵を経て,彩色摺絵本へと普及していく様子を,春信の彩色摺絵本を中心に,彩色摺絵本の草創に焦点を絞って考察する。2.春信の絵本明和期浮世絵界は,一枚絵の分野では錦絵全盛時代を迎え,色彩豊かな版画作品が大歓迎を受けたが,一方版本においては以後もしばらく墨摺時代が続いている。宝暦13年(1763)正月刊の『絵本古金欄』〔図1〕以降,春信は多くの絵本を手懸けているが〔図2〕,絵本に錦絵のごとく多色摺の技法が導入されるのは,明和7年(1770)のことである。つまり,春信が亡くなる直前まで,絵本といえば墨摺であったわけである。このおよそ5年の時間差が,一枚絵と絵本に求められる資質の差を示している。絵本は貸し本屋などを通じて安価で鑑賞され,身近な娯楽として享受されており,春信の墨摺絵本の読者層も,高価な錦絵を享受し得る知識人層よりも,むしろ庶民層に設定されていた。娯楽性の高い読み物としては,廉価であると同時に,主題も実生活に即した平易で明朗なものが好まれたようである。春信も錦絵と絵本では作画方法を工夫しており,絵本には四季折々の風俗などの馴染み深い主題を選び,庶民にとって親しみやすい構成を心掛けている。春信登場の少し前から,浮世絵の主題も徐々に遊里や芝居町から幅を広げ,市民生活のひとこまを捉える兆しが見えていたが,一般の市民が普通に感覚し,享受できる主題を積極的に描いた春信の作品は広く浸透し,浮世絵の主題としてすっかり定着した。特に春信の墨摺絵本には,日々の暮らしが生き生きと描かれ,庶民に向けられた春信の暖かな視点が余すところなく生かされている。さて,「二大悪所」とも称された流行の発信地,芝居の世界と吉原遊廓から,前代未聞の豪華本が出版された。明和7年(1770)正月に,一筆斎文調,勝川春章の合作による3冊組の役者絵本,『絵本舞台扇』(注4)〔図3〕が刊行され,半年後の6月に,吉原を舞台とした5冊組の『絵本青楼美人合』(注5)〔図4〕が発表されており,これは同年に没した春信の遺作となっている。これらが浮世絵界における最も早い彩色3.彩色摺絵本の登場と絵俳書-485-

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