やかな多色摺の技術が導入されている。この年は「吾妻錦絵」の名で多色摺版画を大々的に売り出した年でもある。春信の墨摺絵本は,錦絵作品と同じく,和歌を賛した作品が多いのが特徴である。これに対して『青楼美人合』は共に俳諧に縁の深い作品であり,随所に俳諧的とも言える機知に富んだ工夫が見られる点は興味深い。『舞台扇』も同様に俳諧色が濃く,巻末には芭蕉,其角など古今の名手,37名による発句が寄せられている。『青楼美人合」には,全5巻をそれぞれ吉原遊廓を構成する「五丁町」に見立てるなど,随所に洒脱な工夫がこらされている。各葉に遊女自賛とされる俳諧を掲載しており,一種の俳諧書であると言える。各巻の扉頁には藍摺の背景の上に白抜きで,本書の編者である左簾による発句が示されており,江戸座俳諧の宗匠,笠屋左簾(注9)を中心とする俳諧の一派により構成されていることがわかる。そもそも多色摺技術の発展を促した絵暦交換会こそ,俳諧を共通とした趣味で結びついた人びとの集団であった。俳諧の精神にのっとり,伝存する絵暦作品には随所に「見立」に代表されるパロディーが盛り込まれている。趣味人の旗本,大久保巨川は,絵暦交換会の頃より春信を支援した人物として著名であるが,巨川はこの左簾の社中であり,菊簾舎の号を持つ俳人でもある。巨川が手懸けた絵入の俳諧書「世諺拾遺』(宝暦8年(1758)刊)にも左簾は名を列ねている。本書には多様な人物が挿絵を寄せており,石川豊信,西村重長などの浮世絵師のほか,『わかな』『うみのさち』などの絵俳書も手懸けた勝間龍水も参加している。春信初の多色摺絵本に対する反応は上々であったらしく,春信の没後半年を経た明和8年(1771)正月に,早くも2冊目の彩色摺絵本,『絵本春の錦』(注10)〔図7〕が刊行されている。全編多色摺の2冊組絵本で,奥付に「鈴木春信」の画工名があり,彫工には『青楼美人合』と同様,春信のパートナーとして活躍した遠藤松五郎の名があがっている。室内,戸外の美人を全18図に描き,多色摺技術が生かされた画面は華やかである。所載の図様の構図の基本的な部分は,春信の先行する錦絵や絵本作品によるものが多いようで,とりたてて構成上の目新しさは感じられない。人物のプロポーションや背景処理も他の絵本と比較すると大雑把な部分が目立ち,没後に刊行されていること4.春信没後の絵本-487-
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