鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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III. リンカン大聖堂薔薇窓と『聖ヒュー伝』③ く聖ヒューの内陣〉の設計などにグロステストが関与した可能性を否定。その理由として,グロステストが当時大聖堂参事会と激しく対立していたことをあげこの関係からは,到底それが容認されたとは考えられないとする。④ “crazy vault”導入の背景には,構造の面から以下の二点を新たに指摘する。第ーは,内陣の採光のため。第二は,上記①の項目にある祭室部とヴォールトとが一体感をもたらすよう考案された形であると推定する。ここで注目したいのは,特に③のグロステストの関与を否定している点である。参事会と司教との対立が仮に激しくとも,そのことが直接大聖堂の建設工事,設計のプランに強く影響を与えたかどうかは疑問である。私はこの点に関してキドソン説に反対の立場をとる。グロステストの関与を否定する根拠は弱いと考え,次章で扱う『聖ヒュー伝』との関わりから,問題の“crazyvault"は,グロステスト自身ないしは彼の周囲の環境の中から生み出されたものと推定する。リンカン大聖堂の大翼廊には,南北の正面に各々薔薇窓がある。北薔薇窓は13世紀前半イギリス最古の作例であり,「最後の審判」のステンドグラスがはめ込まれている〔図14-16〕。これに対し南薔薇窓は14世紀の作例である〔図17,18〕。南が北の薔薇窓と比べて大きく,両者ともに宗教改革,市民戦争による破壊や大規模な配置替えを被っており,ステンドグラスの元の位置を正確に復元するのは困難である〔図19〕。北薔薇窓ははっきりとした年代がわからないものの,シャルトル西薔薇窓の後の約1220年頃とされている。現在北薔薇窓は修理中であり,ステンドグラスは取り外されているが,J.ラフォンやN.J.モーガンの基本的研究によってその図像内容を知ることができる(注3)。一方南薔薇窓には後代のガラスが無秩序に寄せ集められており,元の主題を特定することは不可能である。これら二つの薔薇窓については,同時代に書かれた貴煎な文献『聖ヒュー伝』の中に興味深い記述がある。「聖ヒュー伝』は,リンカン司教聖ヒューSaintHugh (1140 頃ー1200)の生い立ちから死に至るまでの事蹟を韻文で綴った聖者伝である。作者は同定されていない。聖ヒューは,フランス東部グルノーブル近郊生まれのカルトジオ会修道士で,イギリス王ヘンリ2世に招かれ,イギリスのウィタムにあるカルトジオ会の修道院長として済任した。1186年にはリンカン司教に任ぜられ,高潔な人柄と果-499-

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