鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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職者を罷免するなど教区の浄化に精力的に取り組んだため,参事会と対立していたことは良く知られた歴史的事実である。③の記述に照らしてみるとそこに強い連関性が窺われる。ところでこの『聖ヒュー伝」は,いつ誰によって書かれたのだろうか。私はその手掛かりを与えるのは,聖伝中の次の一文ではないかと考える。拙税で既に指摘したことだが,リンカン司教にはこの時期,相前後して二人のヒューという司教がいた。二のヒューの下で完了されるであろう。》この二人のヒューは,第一は聖ヒューその人であり,第二のヒューはウェールズのヒューHughof Wells(在1209-1235)であった。グロステストは後者のヒュー,すなわちウェールズのヒューに招かれてリンカンの助祭に推挙され,彼の死後その司教職を継いだのである。以上『聖ヒュー伝』については,以下にまとめられよう。『聖ヒュー伝』の作者は,グロステストと極めて近い関係にあった人物であること,その起草年代は,グロステストの助祭就任の1225年から第二のヒューの没する35年までの間と考えることができる。おわりに開始された(1192年)。8年後に彼が没した時の工事の進捗状況は不明である。1237年ないし39年には大翼廊の交差部に架けられた大塔が倒壊したことから,その頃までに身廊部の工事に入っていたことがわかる。時の司教はグロステストであった。ここで問題は,『聖ヒュー伝』の作者が25-35年頃に建設現場で実際に見たものである。両薔薇窓のほか,参事会室,パーベック・マーブルの柱や天井のヴォールト等にかんする記述が『聖ヒュー伝』のなかに散見されることから,聖伝の起草者は聖堂建築に相当な関心を抱いていた。おそらくはこの人物の周辺から“crazyvault"の発案者,企画者が出たとも考えられる。独創的アイデアを提出した人物の特定はともかく,問題のく聖ヒューの内陣〉が建設された年代を『聖ヒュー伝』とはぼ同じ時期と考えw.『聖ヒュー伝』の作者《Siquorum vero perfectio restat, Hugonis Perficietur opus primi sub Hugone secundo.仮にこの仕事の完成がなされぬままに残っても,第一のヒューの仕事は,第1185年の地震により倒壊した11世紀の聖堂は,聖ヒューの手で東側から再建工事が-502-

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