注」(2) 次の二著を参照ても良いであろう。これは第二のヒューの在任期間の後半期に位置付けられる。従ってく聖ヒューの内陣〉という呼称には,二人のヒューの名が童ねられた可能性があり,この点については従来の研究では指摘されていなかった。キドソンは,当時の西欧世界をおおっていた巡礼熱の高まりの中で,リンカン大聖堂が何らかの聖遺物を必要としていた事情について記している。『聖ヒュー伝』は,書かれねばならなかったのである。こうした状況の中で,大聖堂の再建工事は続けられた。<聖ヒューの内陣〉の“crazyvault’'は,ヒューという聖者を,特別な崇敬心をもって荘厳する目的で作られたと見ることができる。その立案者はグロステストの周囲のごく近い人物であった可能性が高い。しかもこの当時グロステストは,彼の代表作となる「光論』,『虹論』を執筆していた時期と一致している(注5)。以上この度の調査によりえられた新知見は,キドソンの研究と『聖ヒュー伝』の記述に見られる薔薇窓その他大聖堂の建築に関する同時代の貴重な証言であった。また先に私はく聖ヒューの内陣>部は,1200年から40年の間の期間に位置付けてきたが,ここで新たに『聖ヒュー伝」との関わりを視野に入れて,1225年〜40年頃としたいと思う〔図20〕。既に述べたとおり,『聖ヒュー伝』とグロステストとの関係は相当強く,従って薔薇窓および一連の建築装飾に見る特異性はグロステストとの関わりなしには生れえなかったと考えられるからである。(1) 高野「リンカン大聖堂建築にみる特異性R.グロステストと同時代の芸術季刊iichikoく特集・光の文化学〉No.241992年pp.22-48 なお,この主題を最初に扱った論文は次のとおり• Folke Nordstrom, "Peterborough, Lincoln, and the science of Robert • Peter Kidson, "St.Hugh's Choir", Medieval Art and Architecture at Lincoln Cathedral, The British Archaeological Association Conference Transactions for the Year 1982, 1986, pp. 29-42 • Dorothy Owen, A History of Lincoln Minster, Cambridge University Grosseteste", Art Bulletin, XXXVII, 1955, pp. 241-272 Press, 1994 -503-
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