1 大沢•宮脇の出会い成申請中の平成6年宮脇晴についての小文(注2)を草する機会があったが,今回の調査によりそれらに追加・訂正すべき事項も発見された。それらをまとめ,またこれまで曖昧であった岸田劉生・草土杜との関わりや,彼らの制作の背景にあった精神状況についても考察してみたい。大沢鉦一郎は明治26年(1893)名古屋に生まれた。愛知県立第一中学在学中画家を志し,卒業した明治45年(1912)東京美術学校を受験したが石膏デッサンの経験もなく不合格,東京蔵前高等工業学校図案科に入学したものの図案は好きになれず,大正3年(1914)病を得たのを機に退学し転地療養のため愛知県知多郡古見に移った。ただし工芸学校で松岡弄にデッサンの指導を受けたことについては「実に懇切をきわめ,しかも私の絵を皆に説明しながら直されたのでいっそう印象に残り,以後デッサンするにも指導するにもかくありたいと思った。」と述べている(注3)。じきに健康を回復した大沢は独学で盛んに制作を始め,昼は風景画や子供の顔など,夜は自画像の素描などを描いた。裸体や手,足も自分を鏡に写して勉強したという。この頃古見で知り合ったのが9歳年下の宮脇晴であった。宮脇は明治35年(1902)名古屋市に生まれ,小学校を卒業して名古屋市立第一商業学校に入学したが,病により中退し療養のため知多郡古見に移った。従来宮脇の年譜ではこれは大正3年のこととされていたが,尋常科6学年夏休みの日誌が遺っており,年記はないが8月23日の対独国交断絶と宣戦の記述(第一次世界大戦)から大正3年のものとわかる。この日誌の中でも絵を好んでいるが,剣術にも通うなど健康で,古見への転地は大正4年であろう。大沢と知り合った宮脇は毎日のように通って水彩やデッサンを描き始めた。初めは大沢からボッティチェリやデューラーのデッサンを模写させられたという。大沢は雑誌『現代の洋画』『白樺』などを通してゴッホやセザンヌ,ついでロダン,ミケランジェロなどにひかれ,また彼らの伝記や手紙を読みふけった。高村光太郎訳『ロダンの芸術観』が教科書だったといい,この時代に叫ばれだした「個性の発揮」に深く共嗚したと述べている(注3)。当時の作例をみると,大正3年にゴッホ風の人物画《子供》〔図1〕などや風景画がある。大正4年の確かな作品は現在明らかでないが,宮脇によると知り合った頃大沢は斎藤与里を好み,また竹久夢二のようにロマン-512_
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