ティックな水彩やデッサンも描いていたという(注4)。雑誌などで知った新しく個性的な絵画を色々と試みていたのであろう。これが大正5年になると,さきの言葉通り顔のほか手・足・裸の胴体だけを描いたものが多くなる。表現の上では,《自画像》〔図2〕や東京国立近代美術館所蔵の《母の像》のように陰影を隈どり風に強調した独特の手法が見られるが,同じ年のうちに描写は細密なものに移って行き,そうした静物や風景も描かれる。ただ,特に自画像にみる強い凝視の眼差しはその後も続き,大沢の真剣な気迫が感じられる。「物象の内に在る力と輝きを感じるようになり,それを納得のゆくまで追究する,いわゆる『突っ込んで描く』ことに専心した。モチーフも複雑なものよりは一本の樹木,一人の人物だけを描いた。」という言葉(注3)はこの間に生まれた彼の志向を示すものだろう。二人の理想は高く自負も強かった。当時知り合った名古屋の画家丹羽礼介や原田隆蹄ら約十人でお金を出し合い東京から裸婦モデルを招いた折り,岡田三郎助が立ち寄って批評を受けたことがあったが,大沢と宮脇は作品を裏向けて外出し,批評が終わるまで帰らなかったと伝える。しかしながら文展や東海美術協会展では落選を続け,特に後者では入選が何百点,落選が十何点というときにも落ちたという。こうした状況のもと,宮脇のほか大沢の所に集まっていた萬代比佐志・鵜城繁・山田睦三郎・藤井外喜雄・森馨之助との7人で「愛美杜」を結成し,展覧会を3回開催した(第2回展から水野正ーが加わり,第3回展では鵜城繁が抜けている)。大正7年に東京と京都で結成された愛知社と愛土社の名称は愛知県という郷土意識にもとづくものであったが,愛美杜は「美を愛する」意味だという。結成の時期については,昭和35年(1960)に宮脇を編集人として発行された大沢の作品集(注3)の年譜に「1917年愛美杜を主宰し愛知県商品陳列館にて展覧会を開〈」とあり,以後これが踏襲されてきたが,目録が現存する大正8年3月の展覧会が載の年譜では大正6年結成,同8年第1回展としている。大正10年に第3回展を紹介した新聞記事(『新愛知』3月21日)があったが,今回これと内容の一致する目録を見いだした。これに「第3回」と明記されていることからも,会次無記の大正8年目録が初回である妥当性は高まる。第2回展の記録は未発見だが,宮脇が「毎年商品陳列2 「愛美杜」の結成と草士社名古屋展第1回だとする宮脇の発言があり(注5)'『名古屋市美術館所蔵作品目録』(1988)所-513-
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