鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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館の展覧会」と述べていることから大正9年の3月頃開催の可能性があろう。さて,その第1回展「愛美社油絵素描展覧会』目録〔図3〕に一人一点ずつ載せた図版を見ると,いずれも細密な写実表現を示している。また《夜の自画像》という同名作品が宮脇・鵜城・山田・森にあり,仲間うちで同じ主題に取り組み研鑽したことも想像させる。単なる寄り合いではなく同じ芸術的主張に基づくグループとして,愛美杜は愛知県で最初のものといえる。出品点数は大沢が19点,他のメンバーは4点か起させもするだろう。愛美社結成の動機について,大沢自身は「どうせ官展は自分たちの画を認めてくれないから」と述べているが,一般には大正6年2月10日から12日まで愛知県商品陳列館で開催された第1回草土杜名古屋展から刺戟を受けたことが想像されている。この年に書かれた大沢の日記(未公開)があり,弟子の稲葉実氏の抜粋によると,大沢は会期の3日間とも通っている。2月10日(土)「草土社の展覧会を見る,少し予期に反した。けれども,岸田氏の油と椿氏のはいいと思った(不服な点があるにしても)木村氏のは旧作だと言うけれども,あまりにひどい。」2月11日(日)「今日も草土社を見に行く。」2月12日(月)「丹羽氏にミケルァンゼルの本を借りるため,また草土社展へ行って暇つぶしをした。帰りに萬代君の所でレムブラントのいい色刷りを見てすっかり感心した。」これらを字面通り読むと,期待したほどではなかったが翌日も出向くはどには興味を持ったというもので,一方3日目が「暇つぶし」でありレンブラントヘの感動がより大きかったと受け取れる記述は,大正4年劉生の個展を見て「一個の英雄よ」と日記に記した村山棟多の反応などとは異なっている。また宮脇は「二科とか文展以外のものに志を持つものの展覧会として草土社が一番はじめに名古屋で開かれた刺戟が背景にあった様にも思えます」と回想しており(注4),特に草士杜ということよりも初めての近代洋画展であることが重要であったようにも感じられる。ら7点で,総点数は51点となっている。大沢の大きな割合は草土社における劉生を想-514-

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