大きな感化を受けたわけではないにせよ,大沢•愛美社と劉生・草士杜の作風にか3 岸田劉生・草土杜の作風との関係なりの共通性は誰しも感じるところであろう。とはいえ,「樹木や草,あるいは親しい少女たちや自らの顔といった対象への遮二無二の肉薄といった点で,それらが岸田劉生と草土杜の仕事と同じ精神的背景から出たもの,もっと言えば劉生などの先行する仕事があって初めて成り立った作品だと言えないだろうか」(注6)といった意見の「精神的背景」に関しては,先に触れた大正5年までの歩みをみる限り,大沢の中で自ら生まれたもの,同時代者として劉生らと平行した精神であったように私には思われる。草土杜名古屋展に先立つ6年1月8日の日記に「突き込めるだけ突き込んだ画には美がある。苦しみのかたまりと言うような美がある。本当の美の中には苦しみがなければならない」と記していることも注意されよう。具体的な表現の上で特に相違点はあるだろうか。ここで改めて第1回展目録の図版をみると,鵜城の風景画は太い木の幹を中央に据えている。これは「複雑なものよりは一本の樹」という大沢の言葉に沿うもので,大沢の大正6年以降の風景に同様の構成が多いが,こうした感覚は草土杜には見られない。また,宮脇と山田の静物はともに果物を2つ描いたものだが,下に敷いた畳んだ布はやはり大沢作品に見られ,机の置かれた空間は現実味が強い。大正8年始めの時点ですでに大沢の作風が愛美社様式として会員に浸透していたことが窺われる。これらの作品には劉生作品に指摘される特異な消失点を持つ構図や壺の上に果物を乗せるといったことによる超現実感や神秘惑は無く,愛美杜が追求するのはひたすら物の内側にある力や輝きであり,対象にまっすぐに向かう姿勢が明らかである。萬代の《少女の肖像》背景のアーチ型はデューラーなどからではなく草土社によるものと思われるが,そこにも宗教性はうかがわれない。草土社名古屋展から受けた刺戟で考慮したいのは,劉生に対する対抗意識である。大沢はわずか2歳年長で自分の志向と共通性をもつ劉生に闘志を燃やしたようで,この大正6年の作品は《田舎の子供》〔図4〕のように彼として最も緻密で生々しいものとなっている。また目録所載の作品価格の最高額は藤井の静物で250円,大沢と森に200円のものがある。草土杜名古屋展での劉生の油彩が100円であったから,ほとんど無名の愛美社としては,売ることよりも高い自負を示したようにも思われる。伝え聞かれるところでは,劉生の熱心なファンで劉生の名古屋滞在のたび世話を焼いていた鈴木-515-
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