鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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ないが,劉生からの影響に対する大沢•宮脇の否定的態度はこうした意識と併せて解鎌造は大沢とも知己であり,大沢を劉生に引き会わせようとしたが,大沢は決して会おうとしなかったという。劉生も大沢の作品を知っており,名古屋を訪れた際には大沢の様子を尋ねたと言われている。無論劉生の方は大沢をさほど重視したとは思われ釈する必要があろう。4 作風の変化大正6年を「徹底写実」の頂点として,その後も大沢の作品には変化が現れた。大沢の作品には劉生のそれが有する宗教的な神秘感はないが,大正9年の院展に入選した《ジンベを着たる少女》(愛知県美術館蔵)〔図6〕では精神的な光を額に宿したような少女の表情と背景の暗部との間に柔らかな雰囲気が生じており,同12年の《眠れる犬》(常滑市教育委員会蔵)〔図7〕でさらに穏やかな深みを加えていった。ここで興味深いのは,後者について大沢周辺の人々が宋元絵画からの影響を指摘していることである。大沢は院展洋画部の解消もあって大正10年から日本画も制作しており,作品としての現れ方は異なるがここでも劉生と方向が似たのは偶然であろうか。この間の宮脇の作品をみていくと,大正8年11月の《夜の自画像》(名古屋市美術館蔵)〔図5〕では,不敵な眼差し,大きな麦藁帽子をかぶったポーズと光の演出的効果など大沢とは異なった個性がある。宮脇は療養後も回復が不十分だったらしく,県立工芸学校図案科在学中の日記では不調な日が多い。大正8年8月31日に「我全霊は,芸術の内に燃焼して,心の中の何物をも烙もて浄化したりき」と生きる意味を芸術に求めているが,この年10月末,東京への修学旅行中に帝展を見て「帝展は思ったよりつまら無かった。同じ箱に,狸と狐と入れかえて,やれ改革だ,厳選だのと,大きなメートルをあげるのが官僚主義者の口ぐせなのだ。毛色が変わって居る計りで,化かす事に変わりは無い。こうした官展が一流のものとして日本の美術界の潮流を成すのかと思うと少々心細い気がした」と非難している。その翌9年帝展に初入選した《自画像》(愛知県美術館蔵)では,衣服の質感や柔らかい毛髪の流れなどの描写,画面全体の均ーな仕上がりなどに,穏やかさの下に隠れた集中力があろう。14年の《母六六歳之像》(東京国立近代美術館蔵)の克明な老貌描写について,私はかつて「冷徹なまでの」と書いたことがあったが,日記の諸処にみる老母への想いを読むと,顔のしわの一本一本まで慈しんだのかとも思えて来る。-516-

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