12年ヨーロッパにたち,翌年のサロン・ドートンヌに入選している。大正10年に二科5 愛美社の成長と終わり大勢としてはなお官展や東海美術協会を向いていた愛知の美術界において,愛美社はどれほど跡を残したろうか。展覧会の反響という点では,第1回愛美社展と全く同じ会期に名古屋市のいとう呉服店(現松坂屋)で愛知社の第1回展が開催され,2大地方紙であった『新愛知』『名古屋新聞』が予告から展評まで数度にわたって掲載し,愛美社は黙殺されている。しかしその後会員の帝展や院展への入選もあってか,第3回展では『新愛知』に展評がある。大正8年大沢は院展に《田舎の少女》で初入選し,続いて翌9年も《ジンベを着たる少女》で入選した。大正9年工芸学校を卒業し同校教師となった宮脇が帝展に初入選した新聞記事では,大沢とともに研究している旨が語られており(『新愛知』9月13日),ようやく認知されてきたかに見えた。ところが皮肉と言うべきか,会員個々の地位確立はグループ活動の終了にもつながった。愛美社展が3回で終わったいきさつについて宮脇や山田睦三郎は,大沢のもとへの集いが減ってきたことをあげている(但し,大正11年3月東京で開かれた平和博覧会の入選者訪問記事では大沢を愛美社主宰,水野を同人としており,3回展をもって解散というよりは4回展に至らなかったのだと思われる)。藤井外喜雄は大正8年の文展に17歳で入選していたが,同10年には二科展でも名古屋からの入選者3名のうちに入り,同展落選作で帝展に初入選した森はその後あらためて二科で活動した。大正10年には森と共に萬代比佐志も《姉妹立像》で帝展に入選したが,第1回展で劉生風の背景を用いた彼のこの作品は劉生の《童女像》の隣に展示され,「所謂『草土社風』と称するやつであるが,岸田氏のものと並べると何だか途方もなく基底の違っている事を考えさせられる」という評を受けている。愛美社は大正の当時から草土杜との関係が曖昧に解釈されたまま短い活動を終えたが,今後さらなる調査によってその意味が検証されよう。大正10年に京都で第1回展を開いたく自生社〉,同11年に大阪と神戸で第1回展をもったく四青杜〉などでも草土社風の作品が並び,目録に「白樺』風の文章が載せられたというが(注7)'大正期という活気にあふれた時代の理解のためにはこれら地方での一つ一つの活動も掘り起こされるべきであろう。-517-
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