鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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—主として五代・宋時代の水月観音,白衣観音,楊柳観音を中心に一④ 中国における観音菩薩像発展の一研究研究者:国立台南芸術学院助教授本論考は,五代・宋時代における水月観音像,白衣観音像,楊柳観音像の相互関係,これらの展開が元時代以降へどのように影響したかを明らかにしようとしたものである。その考察の内容,結果は次の通りである。水月観音については,絵画史上に見られる水月観音図の初出は,周防が水月観音図を描いた時期,つまり八世紀半ばないし後半にかけての間である。しかし,現存する水月観音に関する経典(偽経と認められる)である水月観音経は,顕徳五年(958)に敦煙地区の霜奉達が亡妻のために写経したものである。この経典は『千手千眼観世音菩薩廣大園満無凝大悲心陀羅尼経』から抄出されたものと考えられる。そうだとすると,これは従来からの,水月観音の図様が『華巌経』に説かれている補陀落山の記述から具象化されたという定説とは,きわめて異なったものとなってくるのである。確かに『華厳経』と『千手千眼観世音菩薩廣大園満無凝大悲心陀羅尼経」は,全く違った系統の経典であるが,この両者の一致点は,この二つの経典ともその中に観音の所在する世界_補陀落山の様子が書かれているのである。この補陀落山に関しての詳しい記述は,例えば『不空羅索神髪真言経』などの数多くの経典においても触れられているが,文献に見られる周肪の水月観音図,或いは他の現存する水月観音図の中でも経典の記述に該当する表出は,見出すことができない。水月観音図に描出された山,水,岩,植物などの自然景で構成された世界は,その時代の人たちが,水月観音が居住すると考えた浄土世界をできるだけ具体的に表現しようとしたものであったと考えられる。このような考え方に立つことで,文献に見られる周時の水月観音図,或いは現存の水月観音図に現わされた竹や水鳥などの表現を理解することができると思われる。また,文献史料を検証した結果によれば,中国における観音の聖地信仰の成立の時期は,唐の宣宗朝のころであり,その成立の重要な背景となっているのは,法華経の観音の水難救済の信仰功徳であることも明らかである。文献と作品例を合わせ検討したように,最初に長安の寺院(『歴代名画記』により)は,九世紀前半には長安を中心として西は四川まで(『益州名画録』により)東は江蘇まで広がり(『常暁和尚請来目録』により),十世紀前半に播亮文勝光寺に描かれた水月観音像の発展補陀落山-42-

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