間と濃い霧を感じさせる。また,水も,流れの早急によって3種類の表現がみられる。この作品で注目すべきことは,墨のグラデーションが深い点である。たとえば,漁村夕照の場面にさす光は,淡い墨のグラデーションで周囲を輩し,その斜陽につつまれた漁村は,黄昏に特有な大気のなかに溶け込んでいくようである。また,点苔や木の幹に濃い墨をつかっているが,周囲から際立つような濃さではなく,筆数もすくない。このような淡墨のみを基調とした墨の微妙なグラデーションのために,各モチーフは互いに融合し,微かな光と潤いのある大気のなかに深く抱かれていくような効果が生まれている。このような現実の光や大気の現象にちかい表現の背後には,光や大気にたいする現実的な態度が感じられる。それもまた,相阿弥が牧硲から学んだものだろう。大仙院室中の襖絵だった16幅のうちの小8幅(以下,小8幅と称する)は,基本的には前述の大8幅と同じ表現を目指したものだが,以下の点から相阿弥の作とは考えられない。まず大8幅にくらべて,広大な山水の奥行きや広がりが十分ではなく,平板な印象を与えているし,各モチーフの表現にも,大8幅のような柔らかさ,モチーフどうしが融合するような点はみられない。また,例えば,相阿弥が一筆で描いた樹木の幹も,この小8幅では塗り重ねられており,細かなモチーフの描写に拙さ,粗さがみられる。光や大気の表現をみると,確かに全体は淡墨でまとめられ,湿潤な大気のなかに各モチーフがつつまれているようであるが,実際には,各モチーフの量しも水面や上空の最しも墨のグラデーションが浅く,大8幅のようなモチーフと大気の有機的な関係はよわい。また細部をみると,漁村夕照と思われる場面の家は,本来なら柔らかな斜陽と黄昏の大気のなかでかすんだ形をとるのだろうが,細部の具体的な描きこみが多く明快になっている。これは,相阿弥の,湿澗な大気のなかにつつまれた不透明な家屋の解釈とは異なる。つまり,相阿弥が光や大気と各景物との関係を現実的に把握していたのとは根本的に異なり,単に全体を淡墨で描くことで光と大気の表現をおこなっている。大仙院に伝わる伝相阿弥筆「灌湘八景図」6幅,出光美術館所蔵の相阿弥筆「灌湘八景図(煙寺晩鐘,山市晴嵐)」も,相阿弥の大8幅にくらべて,細部の描写は繊細さにかけ,点苔や披麻跛の墨調と筆数の抑制が十分ではない。また,隣あうモチーフど伝相阿弥筆「灌湘八景図」小8幅大仙院所蔵-524-
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