うしが微妙に溶け合うような墨のグラデーションヘの配慮がみられず,柔かな光と大気の表現に深まりがたりない点,相阿弥の光や大気を現実的に表現しようとする態度が十分に継承されているとはいえない。相阿弥筆であるかどうか疑問のある作品だが,伝承作品のなかでは,大仙院の大8幅にちかい表現である。山は没骨で描いたうえに,やや粗い披麻妓をほどこし,濃墨の点苔を多くうっている。土披や岩は,淡墨で輪郭線をひき淡<彙して明暗をつけ,濃淡の墨で披麻披をほどこす。近景の樹木は輪郭をとり,幹や葉を具体的に描写する。遠景の樹林の表現は大仙院の大8幅の表現技法を踏襲するものの,描き方はやや大胆である。全体的にみて,大仙院の大8幅ほどの描写の丁寧さ,濃墨の適度な抑制はおこなわれていない。舟や家屋,人物も,淡墨をつかい明瞭に描いている。大仙院の大8幅とくらべると,各モチーフが明快であるために,山水全体が微光と大気のなかに融合していくような印象がよわい。つまり,光と大気の表現が,大8幅ほど現実的ではないのである。このことは,たとえば,上空にわずかに金泥を引いて光を表現するなど,装飾性が加味されている点と関連する。また,この装飾性は,例えば山市晴嵐の場面に林和靖が描かれている点,つまり灌湘八景図と道釈人物画の2つの内容が重複して,画面がにぎやかになっている点とも関連しているだろう。光の装飾的な表現複数の画題の混在には,相阿弥が大8幅において,灌湘八景のうつりかわる光や大気をリアルに表現した態度とは,別の個性を感じざるをえない。是庵のこの双幅は,画面の下から上へと八景を並列させる構図の作品で,大観的な山水のなかに描かれた八景とは異なり,各景はそれぞれ独立したものとなっている。表現技法をみると,たしかに,各モチーフの形態,淡墨を主とした柔かな描写は,相阿弥を学んでいる。しかし,雨や雲気は八景の記号として各場面に描かれているにすぎず,全体をつつむ柔かな光や潤いのある大気の表現はみられない。相阿弥が大仙院の大8幅において実現した,時間の変化にともなって変わる現実の光や大気,また現実的な態度は継承されてはいない。相阿弥の次世代では,灌湘八景図が,各モチーフの構成のみで器用に描かれるようになったことを示しているだろう。なお,本作品の平沙落雁と漁村夕照の場面がそっくり入れ替わっただけの,別の「灌伝相阿弥筆「灌湘八景図」6曲1双妙心寺所蔵是庵筆「灌湘八景図」双幅個人所蔵-525-
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